大学通り[1]「一ツ橋大通り」「廿四間大通り」等とされていた通りの名称が、いつから「大学通り」に一般化していったのかについても検証すべきテーマではありますが、このたびの本文中では、現在定着している「大学通り」の名称を使用しています(引用文は除く)。と飛行機

・『くにたちに時は流れて』掲載の思い出話
・東京・軽井沢間の航空便:昭和2年8月
・東京・軽井沢間の航空便:その後
・東京・箱根間の航空便:計画と実施
・大学通りは滑走路として利用できるのか
・箱根土地航空部
・おわりに


 国立市公民館図書室所蔵の新聞のスクラップ帳に、昭和9(1934)年の記事が綴られています。

 「いはゆる国立百間道路―駅前から谷保村天神さまに通ずる延長七百間幅員卅間、南北の風なら八八式位の大きい飛行機でも楽に離著陸出来る、箱根土地のN技師が世界各国都市の粋を集めて設計した百萬坪の国立学園も住む者少く〔ママ〕依然として奮はないが五千名の学生が通学の朝夕闊歩しても廣過ぎるこの道路だけは国立のしんしよう・・・・・」(下線引用者:以下引用文において同じ。) [2]『箱根土地K・K 大正15年~昭和9年』№59「街」(「昭和九年月十五日      掲載」との記入あり、国立市公民館図書室所蔵)

 当時の大学通りは、銀杏と桜が交互に生い茂った現在のような景観はまだ形成されておらず[3]『谷保村青年団下谷保支部活動記録 付・下谷保講中共有文書目録』(くにたち中央図書館、昭和60年3月30日)92頁には、昭和9年4月24日に「午前七時ヨリ大道路桜植付ニ付キ、支部青年拾弐名自分道具持参デ手伝ニ行キタリ」との記述がみられます。なお、大学通りの銀杏並木と桜並木に関しては、田﨑宣義「一橋大学とイチョウ」その1~その4(一橋植樹会「寄稿文」:http://www.hitotsubashi-shokujukai.jp/kikobunに掲載 )を参照。 、通りの周辺にはほとんど建物も建っていない状況でした。赤松林の広がる中に、広々とした人工的な大通りが一直線に伸びている様子は、いかにも滑走路として利用できそうな印象を強く抱かせたものと思われます。

写真1.昭和4年8・9月頃の大学通り

当館所蔵『Hitotsubashi in Pictures 1950』(一橋創立七十五周年記念アルバム委員会、初版 昭和26年2月1日,改訂再版 昭和26年10月1日) 72頁掲載写真より

 

 国立駅南口の駅前広場から一直線に伸びている大学通り。この大学通りが滑走路として使われた(あるいは使われなかった)という話を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。
 当館へも、「飛行機が大学通りに降りた(大学通りから飛び立った)ということがあったのですか?」といった内容のお問い合わせが時折寄せられます。
 大学通りへの飛行機離着陸。もし、国立が開発されて間もない時期にそのような出来事があったならば、国立のまちを彩る面白いエピソードのひとつになるだろうという個人的な興味も手伝って、資料調査を進めてきました。

 ではその調査の結果、発表できるほどの成果があるか?というと…
「大学通りへの飛行機離着陸を完全には否定できない。ただし、現段階では離着陸したと確実に断定できるだけの資料が発見できていない」
という玉虫色の答えが現段階での調査結果です。
 詳細かつ綿密な調査を継続して、“ついに新事実発見”とスマートに成果を提示したいところですが、生来の不精・不真面目・飽きっぽいという三堕な性格が災いして、なかなか有力な手がかりを掴むまでに至りません。

 このまま個人的に調査を続けていても、はっきりしてはこないだろう。それならば、現段階までの調査状況を整理・提示することで、新発見となる情報が寄せられるかもしれない。といった極めて他力本願、かつ楽観的観測に基づいて、以下の報告をさせていただく次第です。

『くにたちに時は流れて』掲載の思い出話
 大学通りに飛行機(複葉機)が離着陸した思い出として特に著名なものは、志田次子著『くにたちに時は流れて』の「41 翼よ、あれが国立だ!」[4]志田次子『くにたちに時は流れて』(朝日新聞名古屋本社編集制作センター、昭和63年11月11日)82・83頁。 にある次の内容でしょう。

 「 国立の面々は大学通り商大付近に集まって、今か今かと待つうちに、国立駅裏手から爆音と共に複葉機が現れ、滑走して静止しました。飛行機は木の骨組みに、オレンジ色の塗料を滲み込ませた丈夫な布を張った二人乗りでした。機は間もなく舞い上がり、商大上空から立川飛行場へ帰って行きました。サルムソン機というのだそうです。秋空高く日本晴れ。」

 これは昭和4(1929)年の思い出として語られているものです。この思い出話を裏付けられれば、大学通りへ飛行機が離着陸した事実があったことになるのですが、なかなか難航しています。
大学通りへの飛行機飛来については、「この破天荒な企画と実行は、国立開拓者精神の顕現でありまして、痛快無比でした。」と記されてはいるものの、何のイベントで飛行機が飛来したのか、そのイベントは誰が主催したものだったのかが読み取れません。

 同書に掲載されている次の話、「42 東京商科大学讃歌」[5]前掲註4の83~85頁。 の冒頭では、
 「 飛行機が大学通りに舞い下りた昭和四年に、商大国立移転祭〔①〕が行われたと記憶します。
昭和二年春に私共が国立に引っ越しましたとき[6]前掲註4の18頁(「2 国立からの第一報」)で、国立への引っ越しは昭和2年4月とされている。、商大は工事中で移転祭〔②〕後も兼松講堂などの建物、門柱、土手の石積み、池泉庭園などの工事が続きました。」(丸数字は引用者)
とあって、この記述は飛行機が「大学通りに舞い下りた」年代を判断するのに迷うところです。

 東京商科大学(現一橋大学)の兼松講堂は、昭和2(1927)年11月6日に落成式が行われており、この点からすれば上記②の「移転祭」とは、兼松講堂が落成する前に開催された昭和2年4月29日の商学専門部の移転記念祭を指しているものと考えられます。
これを踏まえて、上記①と②の「移転祭」が同じ時期のものと捉えるならば、「飛行機が大学通りに舞い下りた」のは、「昭和四年」ではなく、昭和2年の出来事ということになります。

写真2.昭和2年4月29日商学専門部の移転記念祭

当館所蔵『東京商科大学商学専門部 卒業記念写真帖』(中村写真館製、昭和3年3月) 「移転記念式」掲載写真より

 

 また①と②の「移転祭」を別の時期のものと解釈することもできなくはありません。
その場合、①は昭和4年11月19日に挙行された、第3回にあたる「専門部移転記念祭」[7]『一橋新聞』第69号(昭和3年4月23日)3面「専門部の国立移転記念式」に拠れば、「専門部の国立移転を永久に記念する為毎年行われることゝなつた国立移転記念式」とされており、昭和3年4月29日には第2回の専門部移転記念式が挙行されています。を指している可能性がでてきます。この解釈に立つと「41 翼よ、あれが国立だ!」の一文、「秋空高く日本晴れ。」の季節と移転祭の開催時期とが合致してきます。飛行機飛来という「破天荒な企画と実行」は、昭和4年11月の移転祭の催しであった可能性も想定されるところです。しかしながら、同移転記念祭の催しの内容を細かに報じた『一橋新聞』の記事[8]『一橋新聞』第103号(昭和4年11月25日)2面「秋晴れに恵まれた移転記念祭 講演に運動会仮装行列と 国体の野に若人躍る」では、飛行機に関して何ら報じておらず、確証を得ることはできません。

 なお、「商大国立移転祭」に関しては、昭和6(1931)年5月10・11日に催された本科の移転記念祭(矢野校長銅像除幕式も開催)に注目しておきたいところです。
この移転記念祭の準備段階において、「飛行機を用ひて尖端的な催し」[9]『一橋新聞』第130号(昭和6年3月27日)5面「飛行機を用ひて尖端的な催し 一橋会の役員 珍案に一苦心 紀念祭〔ママ〕の準備進む」において、「飛行機を使用し、落下傘の実演、あるひは飛行機による福引券の配布等の議が持上り大いに珍案を考案中である」と報じています。が企図されていたことが知られ、さらに当日は実際に「歓迎飛行」[10]『一橋新聞』第134号(昭和6年5月27日)3面「記念祭第一日目 故矢野校長銅像除幕式と本学移転記念祭 財界、政界の名士に埋つた国立」に写真掲載と写真説明があります。が行われているのです。

 『一橋新聞』[11]『一橋新聞』第134号(昭和6年5月27日)3面「前日の賑ひを目前に再現 国立の実況映画公開 映画の夕べ大好評」では、この歓迎飛行の行われた記念祭第1日目の映像を、同2日目に実況映画として公開して大好評を博したこと、その実況映画は如水会でプリントして各地方支部で公開する予定であることを報じています。

 この「実況映画」であるとみられる映像が幸いにも現在まで残されており、国立駅前の円形公園にあった水禽舎の水鳥など、当時の国立のまちの様子を含んだ貴重な映像が収められています。その中に「祝賀飛行」と題して飛行機(複葉機)が飛来し、曲芸的な飛行でかなり低空を飛んでいる様子が確認できます。しかし、この飛行機が大学通り上空を飛行する、さらには大学通りに着陸をするといったシーンは残念ながら見受けられません。この映像も大学通りへの飛行機離着陸の確証となるには至らず、移転記念祭で飛行機を用いた催しがあった点を指摘できるにとどまるものです。

東京・軽井沢間の航空便:昭和2年8月
 大学通りへの飛行機離着陸が語られる際、箱根土地株式会社(以下「箱根土地」)による航空便の試みが登場してきます。
筑井正義氏による『堤康次郎伝』では、「箱根土地に航空部の設置されたのは大正十五年夏のことであった。そうして、東京国立と、軽井沢との間に一日一回の定期航空を開始した」[12]筑井正義『堤康次郎伝』(東洋書館株式会社、昭和30年2月20日)「八 航空輸送の夢」72頁。との記述があります。

 また、元箱根土地社員からの聞取り資料にも、「大学通は24間道路といったが、そこに飛行機が発着していた。ここから軽井沢のホテルへ新しい魚なんかを会社が運んでいた。これは2年から4年までやっておったですかね」[13]『私たちの町くにたち』聞きとり資料(1)国立開発~昭和20年(国立町、国立市公民館図書室所蔵)「佐伯さん(元箱根土地社員)の話 1976.1.14」と証言があり、昭和2年~4年に国立(大学通り)から軽井沢へと定期航空便が行われていたことが語られています。

 この東京・軽井沢間の航空便に関しては、当時の新聞でもその内容を報じた記事がみられます。管見の限りながら、その航空便に関した記事を挙げると以下のものが確認できます。

※:以下「資料」として表記した新聞記事は別添資料としてまとめています。
資料1.『信濃毎日新聞』 昭和2年8月8日 2面
「東京軽井沢間連絡飛行 十六日から実施」

資料2.『信濃毎日新聞』 昭和2年8月14日 2面
「東京軽井沢間の定期航空」「東京から軽井沢へたつた五十分」

資料3.『東京日日新聞』府下版 昭和2年8月17日 8面
「鮮魚を積んで一気に飛ぶ 立川軽井沢輸送飛行」

資料4.『東京日日新聞』府下版 昭和2年8月19日 8面
「第一回に確信を得て 軽やかに飛ぶ=立川軽井沢間飛行」

資料5.『東京日日新聞』 昭和2年8月20日 7面
「雑記帳」

資料6.『東京日日新聞』府下版 昭和2年8月20日 8面
「飛行隊だより」「旅客輸送延期」

(資料3)『東京日日新聞』府下版 昭和2年8月17日 8面より抜粋

 これらの報道に拠れば、東京・軽井沢間の航空便は、第1回が昭和2年8月16日に、第2回が同18日(19日午後東京帰還)に行われ、少なくとも2回の実施が確認できます(第3回は同23日に延期された後、実際に行われたか否か不明[14]平木國夫氏は、日本飛行学校主事の木暮武美氏の日記の記述から「どうやら立川―軽井沢連絡飛行は、これ〔第2回目:引用者〕をもって中止となった」としています(平木國夫「箱根土地(株)航空部始末」『航空情報 AIREVIEW』572号、酣燈社、平成4年5月1日 85頁)。)。

 これらの報道で気になるのは発着した場所に表記の相違がある点です。
航空便の東京における発着場所について、「立川(立川飛行場)」と報じたもの(資料1・3・4・6)のほかに、「国立(国立飛行場)」と報じているもの(資料2・5)があるのです。

 では、この航空便で実際に国立を起点とした飛行機の発着があったのでしょうか?
この点については、当該航空便を報じた『東京日日新聞』府下版の記述(資料3・4・6)が「立川(立川飛行場)」の表記で揺れていない点、『木暮武美日記』にある第1回目の航空便の記述が、「箱根土地KKの依頼で立川―軽井沢連絡飛行開始す。小川氏アプロ鮮魚10貫余積載。」[15]前掲註14の平木論稿84頁。とされている点、更に箱根土地航空部が後に計画する東京・箱根間の定期旅客輸送飛行(後述)で国立を主とした飛行機の発着を画策しているものの、その段階でも未だ確定した様子がない点など、これらの諸点から類推して、私見では東京・軽井沢間の航空便で東京のベースとなった飛行場は、立川飛行場だったとみています。

 なお、この飛行場の表記の相違は軽井沢側[16]『軽井沢町誌』(昭和11年7月)には、「軽井沢飛行場」について「南軽井沢にあり、箱根土地会社の所有地約四百町歩を以て先年臨時飛行機発着場として今日に至る」との記述があります。また、幅北光編『写真集 思い出のアルバム 軽井沢 目で見る明治大正昭和の軽井沢』(郷土出版、1979年6月1日)には、昭和24(1949)年の軽井沢飛行場の写真が掲載されており(126頁)、軽井沢町立図書館デジタルアーカイブでも、「南軽井沢飛行場」の情報が公開されていて参考となります。(http://karuizawalibrary-archive.jp/userguide/preview.html?mid=838
 なお、笠間信也様(国立市在住)および軽井沢町立図書館(レファレンスご担当:大井様)より軽井沢の飛行場について貴重な情報・資料のご教示・ご提供をいただきました。
でも生じています。資料1・2の信濃毎日新聞の報道では「南軽井沢馬越(馬越(ヶ)原)飛行場」とされているのに対し、資料3の東京日日新聞府下版では「軽井沢千ヶ瀧の高原飛行場」とされており、示されている場所が異なっています。おそらく、資料3は、初飛行記念として催された冒険飛行の開催場所(千ヶ瀧)との混同により、飛行場の場所を誤って報じたものとみられます。

 余談ですが、この立川・軽井沢間の第1回航空便に際しては、初の連絡飛行を記念した「冒険飛行」が、千ヶ瀧の上空において行われました。これは箱根土地主催、信濃毎日新聞後援によって、航空便と同日の昭和2年8月16日に行われたもので、その見学団員の募集もなされています(資料2-2・3・4・5参照)。

(資料2~2-4)『信濃毎日新聞』昭和2年8月14日 2面より抜粋

 この冒険飛行とは、「民間でたつた一人のパラシウター日野俊雄氏が落下傘の降下、翼上曲技、縄梯子吊下などの冒険飛行を決行する」(資料2-2)ものであったようです[17]前掲註14の平木論稿85頁には、「主翼上には、片手で命綱を握ったパラシューターの日野俊雄が棒立ちになり、片手をふって観衆に挨拶した。ついで縄梯子を吊り下げ、日野が梯子の下まで降りてみせた。さらに落下傘降下をやって観衆を驚嘆させた。」と具体的に実施の状況が記されています。
 この日野氏による曲技が行われた背景には、箱根土地による宣伝という側面があったものと考えられます。しかし、資料1に拠れば、この「東京、軽井沢間定期連絡飛行」は、元来「日本パラシユート研究所航空事業部」で計画調査していたものを、箱根土地航空部が「同飛行計画実施の全般を引受け」たのであり、その目的には「航空路の開拓山岳地帯飛行の研究及び、山岳地帯にパラシユート利用の関係等」が掲げられているのです。この点を考慮すると、冒険飛行の催事開催は、この目的と関連したものであった可能性も考えられるところです。

 先のとおり、東京・軽井沢間の航空便は立川飛行場から発着していたとみていますが、大学通りへの飛行機離着陸を探るうえで資料3にある次の記述は注目されます。

 (第1回目の航空便成功を報じた後)「二日〔第2回目の航空便:引用者〕は、十八日立川から国立大学町に著陸。同所の廿四間道路を滑走の上離陸し、そこから一気に軽井沢へ飛ぶ筈で、道路を離陸場として飛ぶのはわが国においてはこれを以てこう矢とすると。」(句読点は引用者)

 これに拠れば、第2回目の航空便において、立川飛行場から国立大学町を経由して軽井沢へと向かうコースが計画されていたことが知られます。この計画が実行されていたのであれば、少なくとも大学通りから飛行機が離陸した事実があったということになります(着陸については大学通りとは明記してありませんので)。

 しかし、第2回目の航空便の実施を報じた資料4の記事をみると、「立川飛行場を出発した」との記述はあるものの、国立大学町を経由した点は何ら報じられていません。したがって、ここでも大学通りへの飛行機離陸を確実視しうるだけの情報を残念ながら確認することができません。

東京・軽井沢間の航空便:その後
 東京・軽井沢間の航空便は、昭和2年8月16日(火)と同18日(木)の2回が行われたことを確認できるものの、それ以降の航行実施の報道が確認できないという点は、既に述べたところです。では、この航空便はそれ以降実施されることがなかったのでしょうか。
この航空便実施を考えるにあたっては、次の記述が参考になります。

「一、実施期及び時間 八月十六日より九月五日まで毎週日火木土四往復(午前九時立川発午後四時南軽井沢発)」(資料1

「箱根土地会社航空部の立川軽井沢間定期旅客輸送飛行は九月五日で本年夏期の輸送を終了の予定である」(資料7

「昨年〔昭和2年:引用者〕試験的に行つた立川、軽井沢間の旅客輸送も明年から正式に開始する筈」(資料9:箱根土地航空部鈴木飛行士談

 「昨夏〔昭和2年夏:引用者〕はじめての試みを立川、軽井沢間に実施して避暑地への旅客輸送飛行に成功した箱根土地会社航空部では本年もこれを続行して実用化の徹底を期する事になつてゐる」(資料10

 これらの記述からすれば、この航空便は、期間を限定して試験的に実施されたものであったと考えられます。とすれば、航行回数があまりにも少ないという点も、試験航行であったがため、また実施した航行で試験目的が達せられたために、それ以降行われなかったという解釈もできなくありません。

 その観点からこの航空便の実施内容をみると、第1回目で「魚河岸から著いたばかりの大タコ、タイ、マグロ、アワビ等を同乗」(資料3)し、総体として「鮮魚10貫余積載」[18]前掲註15に同じ。 して航行しており、第2回目では「ジヤパンタイムス社の堀口氏同乗の上」(資料4)での航行がなされています。資料1にある「搭乗者一名及貨物五十キロ以内」の搭乗・積載は2回の航行において実施されていたことになります。
また、資料4に掲載された小川寛爾飛行士の談話では、山岳地帯の飛行について良好な実績をあげたことが語られており、前記の「冒険飛行」の催事開催も併せて考慮すれば、資料1で掲げられた目的(「航空路の開拓山岳地帯飛行の研究及び、山岳地帯にパラシユート利用の関係等」)についても、一定程度の成果を挙げたものといえるのではないでしょうか。

 このように捉えると、昭和2年夏季に実施された東京・軽井沢間の試験的な航空便の実施は、試験目的の達成によって2回(2往復)で終了したという可能性もありえるところです。
ただし、上記資料1にあるとおり、8月16日から9月5日までの3週間において、毎週4往復(日・火・木・土に実施)の計12回(12往復)の航行が計画されていたにしては、あまりにも実施回数の少ない点が気に懸かります。本当に2回で終わってしまったのか否か、この実施状況については今後も継続して調査していく必要がありそうです。

 また、資料9・10の記述からは、箱根土地が昭和3(1928)年以降、同航空便の正式な実施を期していた様子が窺われます。しかし、正式な定期航空便として実際に航行したことを示す資料は、現段階では見つかっていません。

 前記の箱根土地社員の聞取り[19]前掲註13に同じ。には、昭和2年~4年に定期航空便が行われていた旨の言があるため、管見の資料に経眼しないことをもって断ずることできませんが、この東京・軽井沢間の航空便が正式な定期便として実用化した可能性は低いのではないかと考えています[20]筑井正義『堤康次郎伝』(東洋書館株式会社、昭和30年2月20日)「八 航空輸送の夢」(71~75頁)では、東京・軽井沢間の航空便についてさまざまなエピソードが紹介されています(内容自体には検証すべき点もありますが)。その中においても同航空便の正式航行についての記述はありません。

東京・箱根間の航空便:計画と実施
 東京・軽井沢間の試験的な航空便を行った箱根土地は、東京・箱根間についても航空便の実施を画策しています。
資料7では、昭和2年秋から年間を通じた東京・箱根間の「定期旅客輸送飛行を開始する事とな」ったと報じており、箱根土地の次なる航空便の計画が示されています。

 この箱根土地の航空便構想は、昭和3年1月17日に芦ノ湖に水上機が着水したことで、「東京箱根間往復旅客輸送飛行の第一回試験」(資料12)に成功を収めます。
 東京・軽井沢間の航空便の際と同じく、箱根土地は東京・箱根間の航空便についても、「本式の旅客輸送飛行を開始」(資料12)しようと目論んでいますが、これらの航空便が本格的に事業として成立した痕跡はやはり確認できません[21]資料13には「本牧下田間百八キロ所要時間一時間十分で一週二回の定期航空」、「下田清水間六十一キロの新航空路」とあって、箱根土地による航空事業の展開が報じられています。これらの構想のその後については詳らかではありませんが、定期航空便開設の目論見として注目されます。

(資料12)『東京日日新聞』府下版 昭和3年1月21日 12面より抜粋

 この東京・箱根間の航空便構想にあたっては、以下の資料にみられるように、箱根土地が国立の地へと航空便の発着を企図していた点が注目されます。

 「この輸送飛行〔東京・箱根間定期旅客輸送飛行:引用者〕は四季を通じて行はれ蘆の湖付近を飛行場としそれまでに同航空部直属の飛行機を新調する筈で操縦者も直属となるが追つては出発地点を立川から国立に移す事になつてゐると」(資料7

 (東京・箱根間の定期旅客輸送飛行について)「東京の離著陸場を立川町とするか、或は国立大学町の箱根土地経営地内に設くるかについては、逓信省の意向決定をまつてきめる筈」(資料8

 「立川飛行場は国立の経営地五十萬坪の地を飛行場として完成する以前において一時的に使用を許可してもらひたいと思つてゐる」(資料9:箱根土地航空部鈴木飛行士談

 また、これらの新聞報道と時期的に重なる箱根土地の『第拾六回報告書』(昭和2年下半期:自昭和2年6月1日・至同年11月30日)にも、「国立隣接ノ北域約十五萬坪ノ地ヲ根據トシテ航空事業ヲ開始スルノ計画モアリ」(2頁)との記述が見受けられます。

 これらの内容からは、箱根土地が何とか国立へと飛行機を発着させようと企図している点が窺われます。この箱根土地による企てについては、資料8で逓信省が「会社の宣伝を目的とするものではないか」と鋭く指摘しています。おそらくこの指摘(宣伝目的)が正鵠を射たものでしょう。
国立大学町の分譲等に係る宣伝効果を狙った航空事業の利用、しきりに国立へと飛行機を発着させようとしていた箱根土地の意図はここにあったと考えられます。

 先に示した通り、昭和2年の東京・軽井沢間航空便の第2回目の試験的飛行では、国立を経由した飛行計画が宣伝されており、「廿四間道路を滑走の上離陸」(資料3)と大学通りを滑走路として使用する計画が含まれていました。

 さらに、東京・箱根間の航空便の試験飛行を成功させた後、昭和3年4月の時点でも、「駅前から真面の道路は幅員百二十間延長三十町の堂々たるもので昨年秋よりの計画中であつた同道路の一部に飛行機の高著陸場を設ける事になり目下それについてのいろいろな設計がなされてゐる」(資料14)と報じられています。箱根土地が、大学通りへの飛行機の発着をいまだ諦めていないことが窺い知られます。
立川飛行場と近接している国立の地において、敢えて経営地内に飛行場の建設まで目論んでいた箱根土地。この箱根土地が、大学通りの滑走路利用を試みていたことが確認できるわけです。

 前記のとおり、第2回目の東京・軽井沢間航空便の試験的飛行では、大学通りの滑走路利用は確認できていません。また、昭和2年秋より計画された大学通りの一部滑走路化が実施されたという点も確認できません。
しかし、大学通りへの飛行機離着陸を企図していた箱根土地であれば、宣伝効果を狙った実験的・イベント的な飛行として、大学通りに飛行機を飛ばしてきていたとしても不思議ではありません。

写真3.大学通りの上を低空飛行する飛行機

渡辺彰子『国立に誕生した大学町―箱根土地(株)中島陟資料集―』 (株式会社サトウ、平成27年8月2日)74頁掲載写真より

この推定について注目しておきたい資料が、中島陟資料内にある1枚の写真です[22]渡辺彰子『国立に誕生した大学町―箱根土地(株)中島陟資料集―』(株式会社サトウ、平成27年8月2日)74頁。
箱根土地の常務取締役などを務めた中島陟氏の資料中には、開発当時の国立のまちの状況などを収めた貴重な写真が数多く含まれています。その中に、複葉機らしき飛行機が大学通りの上を低空で飛行している写真が残されているのです。また、別の写真には、この飛行の様子を撮影しようと大学通りで待ち構えている人達も写し撮られています。

 確認されている中島陟資料には、この飛行機が大学通りに離着陸した状態を撮影した写真は、残念ながら含まれていないようです。
しかし、この写真の存在によって、大学通り上空へと飛行機が飛来していた点、それを事前に知る者がおり、他にも撮影者が大学通りで待ち構えていた点、そしてこの写真が箱根土地縁の中島陟資料中に含まれている点を確認できます。これらの諸点を勘案すれば、箱根土地が大学通りへと実験的あるいはイベント的に飛行機を飛来させてきた、そのように考えることもできるのではないでしょうか。

 他にも撮影者がいた点からして、この飛行機飛来を撮影した写真が他にも残されている可能性があり、そこには中島陟資料には撮影されていない状況が写し撮られているといったこともないとはいえません。

今後の資料探索を継続するにあたって、そのような資料の出現を期待したいところです。

大学通りは滑走路として利用できるのか
 国立大学町に先行して箱根土地が学園都市の開発を手がけた大泉学園都市では、区画の中心に40間の道路をつくる計画がみられます。この道路については、「飛行機を飛ばす滑走路の予定に計画された」との話しが伝えられています[23]『古老聞書』(練馬区教育委員会、昭和61年3月20日)「学園町の造成地」132頁。「この、朝霞へ行く道は最初は今より広く、四十間幅に土地を借りて道路を作り、飛行機を飛ばす滑走路の予定に計画された。しかし実現せず、しばらくはその幅だけ一面の草原であったが、後に地主に返された。」との聞き書きが掲載されています。

 国立の大学通りについても、『国立市史』が「大学通りは飛行機の離着陸を考えて作られたという説もあるが、事実ではあるまい。」[24]『国立市史 下巻』(国立市、平成2年5月25日)「商大と町づくりのビジョン」101頁。と述べているように、やはり滑走路として使用することを想定していたとの話しがあるようです。

 分譲地として開発された街区であるにもかかわらず、分譲地を潰してまで分譲しえない道路を幅広く設置している。さらに、それが直線道路で街区を貫通しているとなると、滑走路として利用するものではないかと、当時は捉えられたのかもしれません。
箱根土地による大学通りへの飛行機離着陸の企図、およびその経緯をみると、予め滑走路使用を想定して大学通りが計画・整備されていたものと考えるよりは、後付けの利用方法として挙がったものとみる方が正解のようです。

 なお、この大学通りの滑走路利用については、そのような事実は無かったという見解も示されています。
本年白寿を迎えられた国立在住の彫刻家である関頑亭(本名:保壽)氏[25]関頑亭氏に関し、当館(くにたち郷土文化館)では、『関頑亭―谷保から国立へ―』と題した企画展示を5月26日より開催いたします(6月24日まで)。また、たましん歴史・美術館では、『99歳の彫刻家・関頑亭―声字実相義 耳で見つめ、目で聴く―」展が現在開催中です(7月1日まで)。は、国立大学町草創期を知る方であり、国立の郷土史に関しても造詣の深いことで知られています。
 この関頑亭氏による大学通りへの飛行機離着陸に関した証言が、『平兵衛新田 むかし・現在“別巻”』[26]『平兵衛新田 むかし・現在“別巻”』(国立駅北口 光商栄会、2011年11月3日)「大学通りの『滑走路伝説』について」182~186頁。183頁に掲載されています。
その証言に拠ると、国立駅南口駅前広場の富士見通り入口付近に複葉機の「飛行機が置かれていた」ものの、それは離着陸したものではなかったこと、大学通り南端の「谷保の高圧線」の存在によって大学通りへと飛行機が離着陸することができず、「一度も大学通りが飛行機の滑走路に使われた事は無い」と述べられています。

 加えて同書の185頁~186頁では、渡邉等氏が飛行機を操縦する立場から、大学通りが滑走路として使用に適するか否かを細かく検討された内容が掲載されています。
 着陸態勢に入ってからの横風の危険性(「多摩川方向から吹いて来る西風が怖い。」)や、不時着や緊急着陸ならば距離的に足りるものの、「機体を損傷する事無く降りるのは難し」く、滑走路としては道幅も不足している点、必要となる空域(「南北3,000m、横風対策として東西1,200m位の空域」)が確保できない点などから、「大学通りが、滑走路として使用されなかったのは、間違いない。」と説示されています。

 冒頭でも申上げました通り、私自身は「大学通りへの飛行機離着陸の事実」を探し求めている立場です。今までの物言いからもお分かりのように、どうしても「降りて(飛び立って)いるのではないか。」という方向で資料等を探索してしまいます。

 ニュートラルな状態で資料を検討していくためにも、大学通りが飛行機の離発着に適したものではないとのこれらの言説は、常に頭に置いておく必要がありそうです。

箱根土地航空部
 箱根土地による定期航空便の構想は、同航空部が関わっている事業です。そのため、大学通りへの飛行機離着陸を探っていく上においても、本来はこの航空部の調査を進めていくことが核心をつく近道ではあります。
先行論稿において箱根土地航空部を取り上げたものは極めて稀で、その中にあって既に引用している平木國夫氏の「箱根土地(株)航空部始末」[27]『航空情報 AIREVIEW』572号(酣燈社、平成4年5月1日)83~88頁掲載。が、同航空部を詳細に論じた唯一ともいえるものです。
 平木氏は、同航空部について「西武には箱根土地(株)航空部に関する正式文書は何も残っていなかった」とされ、その理由として「短期間の、いわば試験的にもうけたセクションだったからであろう」と推察されています。
 私の資料探索(まだまだ調査不足ですが)でも、箱根土地航空部の実態が分かるような資料には未だ巡り会えていません。資料に制約されて、箱根土地航空部自体を正面から調査するというのはなかなか進まない状況にあります。

 そのような中、中島陟資料内にある堤康次郎氏の談話をまとめた(あるいは談話の原稿)とみられる資料[28]前掲注22の240~246頁掲載「分譲地の売価算定に付て」。なお、この資料では「大正十二年国立建設着手当時の計画書」(241~243頁)が示され、最後辺では「国立の開発に着手して以来既に十八年」(246頁)と、大正12(1923)年が国立開発の起点とされている点でも注目される資料です。の記述を、今後の方向性をみる手掛かりのひとつとして提示します。
 この資料の冒頭に「(十五年十月十九日) 談」とあり、内容から勘案すれば昭和15年10月19日の時点で同氏が発言した(あるいは発言資料とした)ものであるとみられます。
この後半において自身の思い出話を語っている件で、「其の後伊藤〔伊藤酉夫:引用者〕氏は当社の航空部(それは吾国民間航空事業に先鞭をつけたものであつたが)に対して色々と指導し会社の為に種々尽力して下された」[29]前掲注28掲載資料の246頁。との内容が示されています。
 この資料内でも記されていますが、この伊藤酉夫氏は、逓信省航空局の嘱託であり、また山階宮武彦殿下によって大正14(1925)年9月に開所した御国飛行練習所の主事となった人物[30]三田鶴吉『立川飛行場物語(上)』(株式会社けやき出版、1987年3月27日)135・136頁。なお、同書139頁に拠れば、御国飛行練習所は開所から10ヶ月で閉鎖されたようです。で、昭和3年4月には、閉鎖した当練習所を改称した「御国航空学校」を開校させています[31]『読売新聞』昭和3年4月2日「御国航空学校 けふ開校式」(『新聞集成 昭和編年史 三年第Ⅱ巻』(明治大正昭和新聞研究会、昭和63年12月9日)26頁掲載)。

 平木氏は、東京・軽井沢間の試験的航空便の航行について、立川飛行場の日本飛行学校が箱根土地航空部に対して、「乗員つき航空機の賃貸借」にあたる「ウェット・チャーターしたことが明らかである。」[32]前掲注27の平木論稿84頁。と述べられています。
先の御国飛行練習所主事である伊藤氏との関係性も含め、立川飛行場関連の資料において、箱根土地航空部に関するものが存在している可能性が想定されます。

 この方面に関しては調査不足で、現在何かしら述べられる用意を持ち得ていませんが、今後の調査対象として力点を置いて検討していかなければと考えています。

おわりに
 大学通りへの飛行機離着陸について、限られた資料の中で検討してみました。スッキリと結論に至ることはできていませんが、今後の新資料の出現を俟つためにも、現段階で確認できた(あるいは確認できなかった)内容について、以下概略をまとめておきます。

    1. 『くにたちに時は流れて』にある大学通りへの飛行機離着陸の記憶は、どのようなイベントでの飛行機飛来か不明ながら、東京商科大学の移転祭との関係から、記述されている昭和4年のほか、昭和2年の可能性も考えられるところです。
    2. 東京商科大学の移転祭については、昭和6年5月の本科の移転記念祭で「歓迎飛行」が催されているものの、昭和2年4月と昭和4年11月の商学専門部の移転記念祭については、いずれも飛行機が飛来したという記録は確認できません[33]『一橋新聞』には、「二千に近い学校関係者が漸く飛行機が珍しくなくなつた。」との記述(第132号(昭和6年4月27日)5面「国立カラー(1)土地開発から本学の移住へ」)や、「芝生には寝ころんで新聞を見てゐる学生、飛行機を見てゐる学生等時々見受けられる」との記述(第143号(昭和6年11月14日)5面「国立カラー(10)雑草生ひ茂る大通りに『交通安全デー』 一橋大通りの今と未来」)があり、当時の国立地域における飛行機に対する認識が窺われて興味深いものです。
    3. 箱根土地による東京・軽井沢間の航空便については、昭和2年の段階では期間限定の試験的航行であった点、東京における発着は立川飛行場から行われたとみられる点を確認しました。なお、実際の航行が確認できるのは8月16日と18日の2回のみですが、試験飛行の予定回数等を考慮した場合、その後中止となったものか否かは、継続して調査する必要があると考えられます。
    4. 箱根土地は、東京・軽井沢間の試験的航行にあたっても、またその後に計画した東京・箱根間の航空便においても、国立から飛行機の発着を企図していることが知られます。そこでは、国立に飛行場を建設する計画があったこと、また大学通りへと飛行機を離着陸させようとの目論みがあったことが確認できます。
    5. 箱根土地航空部による定期航空便の航行計画は、試験的航行での実績は認められるものの、その後本格的な運航が実施されたことを確認することができません。

 箱根土地による航空事業は、軽井沢での「高原山岳遊覧飛行」[34]『北信毎日新聞』昭和3年8月29日(渡辺彰子『くにたち:商店街形成史―国立大学町を中心として―』(株式会社サトウ、2000年2月15日)74・75頁掲載内容より)。、箱根での「芦の湖縁辺周遊丈けの水上飛行機」[35]『横浜貿易新報』昭和3年8月14日(前掲注27における平木論稿88頁掲載内容より)。と報じられているように、航空便に係る試験航行の後は、定期航空便の実施よりもむしろ遊覧飛行へとシフトしたように見受けられます。
 その遊覧飛行の事業も長くは継続しなかったようで、箱根遊船会社の代表取締役などを務め、堤康次郎周囲の「経営者的な人材」[36]由井常彦編『堤康次郎』(株式会社エスピーエイチ、1996年4月26日)186頁。の一人であった大場金太郎氏は、芦ノ湖の遊覧飛行に関して、「それも三ヶ月足らずで一機が故障し一機が不時着して営業をとりやめました」[37]大場金太郎『箱根開発の思い出―米寿を迎えて―』(株式会社芦川印刷所、昭和49年7月1日)34頁。なお、同著では「大正十五年四月、芦ノ湖上に飛行機を着水させました」と記しており、新聞報道(昭和3年1月17日着水)とは時期等に相違がみられます。と回想しています。この遊覧飛行も短期間で終了した可能性がありそうです。

 堤康次郎氏は、大正末期頃の東京商科大学関係とみられるイベントで、自らが機上にあった飛行機よりビラを撒いており[38]大正14年11月9日に行われた東京商科大学工事進捗に伴う園遊会や、大正15(1926)年に催された同大学卒業生を招待した国立視察といったイベントにおいて、飛行機から捲いたものと考えられます。、早くから飛行機の宣伝効果に着目していたことが窺われます。

写真4.館蔵資料「飛行機上にて 堤 康次郎」

 箱根土地による航空便計画でも、再三にわたって国立からの発着を企図するなど、同社が飛行機を宣伝活動に利用しようしていたと見受けられるものがあります。また、その流れの中で、箱根土地が大学通りに飛行機を離着陸させようとしていたことも当時報じられているところです。

 箱根土地による定期航空便の実施が確認できていない現状において、大学通りに飛行機が離着陸した事実があったとすれば、箱根土地が宣伝活動として実験的・イベント的に大学通りへと飛行機を離着陸させた、これが可能性としては高いものではないかと考えています。
定期航空便による離着陸とは違って、その回数はかなり限定的なものでしょう。この事例が確認できるような稀少価値を有する資料、そのような資料との出会いがいつか叶うことを祈念し、この調査報告を終わることにします。

 最後に、昭和初期(特に昭和2・3年頃)に国立にお住まいだった方、そのような方が家族・親戚・お知り合いにいらっしゃる方、当時を記した日記や写真などに、大学通りへと飛行機が離着陸した事実が記されている、あるいは写し撮られているといったことはありませんでしょうか?
 もし、そのような資料を発見されたら、是非とも当館までお知らせください。これを機に新資料発見のご報告をいただくことができたとしたら、この稚拙な報告も少しは役に立ったといえるでしょう。何卒よろしくお願いいたします。

【2018.04.15:中村記】

※脚 注   [ + ]

1. 「一ツ橋大通り」「廿四間大通り」等とされていた通りの名称が、いつから「大学通り」に一般化していったのかについても検証すべきテーマではありますが、このたびの本文中では、現在定着している「大学通り」の名称を使用しています(引用文は除く)。
2. 『箱根土地K・K 大正15年~昭和9年』№59「街」(「昭和九年月十五日      掲載」との記入あり、国立市公民館図書室所蔵)
3. 『谷保村青年団下谷保支部活動記録 付・下谷保講中共有文書目録』(くにたち中央図書館、昭和60年3月30日)92頁には、昭和9年4月24日に「午前七時ヨリ大道路桜植付ニ付キ、支部青年拾弐名自分道具持参デ手伝ニ行キタリ」との記述がみられます。なお、大学通りの銀杏並木と桜並木に関しては、田﨑宣義「一橋大学とイチョウ」その1~その4(一橋植樹会「寄稿文」:http://www.hitotsubashi-shokujukai.jp/kikobunに掲載 )を参照。
4. 志田次子『くにたちに時は流れて』(朝日新聞名古屋本社編集制作センター、昭和63年11月11日)82・83頁。
5. 前掲註4の83~85頁。
6. 前掲註4の18頁(「2 国立からの第一報」)で、国立への引っ越しは昭和2年4月とされている。
7. 『一橋新聞』第69号(昭和3年4月23日)3面「専門部の国立移転記念式」に拠れば、「専門部の国立移転を永久に記念する為毎年行われることゝなつた国立移転記念式」とされており、昭和3年4月29日には第2回の専門部移転記念式が挙行されています。
8. 『一橋新聞』第103号(昭和4年11月25日)2面「秋晴れに恵まれた移転記念祭 講演に運動会仮装行列と 国体の野に若人躍る」
9. 『一橋新聞』第130号(昭和6年3月27日)5面「飛行機を用ひて尖端的な催し 一橋会の役員 珍案に一苦心 紀念祭〔ママ〕の準備進む」において、「飛行機を使用し、落下傘の実演、あるひは飛行機による福引券の配布等の議が持上り大いに珍案を考案中である」と報じています。
10. 『一橋新聞』第134号(昭和6年5月27日)3面「記念祭第一日目 故矢野校長銅像除幕式と本学移転記念祭 財界、政界の名士に埋つた国立」に写真掲載と写真説明があります。
11. 『一橋新聞』第134号(昭和6年5月27日)3面「前日の賑ひを目前に再現 国立の実況映画公開 映画の夕べ大好評」
12. 筑井正義『堤康次郎伝』(東洋書館株式会社、昭和30年2月20日)「八 航空輸送の夢」72頁。
13. 『私たちの町くにたち』聞きとり資料(1)国立開発~昭和20年(国立町、国立市公民館図書室所蔵)「佐伯さん(元箱根土地社員)の話 1976.1.14」
14. 平木國夫氏は、日本飛行学校主事の木暮武美氏の日記の記述から「どうやら立川―軽井沢連絡飛行は、これ〔第2回目:引用者〕をもって中止となった」としています(平木國夫「箱根土地(株)航空部始末」『航空情報 AIREVIEW』572号、酣燈社、平成4年5月1日 85頁)。
15. 前掲註14の平木論稿84頁。
16. 『軽井沢町誌』(昭和11年7月)には、「軽井沢飛行場」について「南軽井沢にあり、箱根土地会社の所有地約四百町歩を以て先年臨時飛行機発着場として今日に至る」との記述があります。また、幅北光編『写真集 思い出のアルバム 軽井沢 目で見る明治大正昭和の軽井沢』(郷土出版、1979年6月1日)には、昭和24(1949)年の軽井沢飛行場の写真が掲載されており(126頁)、軽井沢町立図書館デジタルアーカイブでも、「南軽井沢飛行場」の情報が公開されていて参考となります。(http://karuizawalibrary-archive.jp/userguide/preview.html?mid=838
 なお、笠間信也様(国立市在住)および軽井沢町立図書館(レファレンスご担当:大井様)より軽井沢の飛行場について貴重な情報・資料のご教示・ご提供をいただきました。
17. 前掲註14の平木論稿85頁には、「主翼上には、片手で命綱を握ったパラシューターの日野俊雄が棒立ちになり、片手をふって観衆に挨拶した。ついで縄梯子を吊り下げ、日野が梯子の下まで降りてみせた。さらに落下傘降下をやって観衆を驚嘆させた。」と具体的に実施の状況が記されています。
18. 前掲註15に同じ。
19. 前掲註13に同じ。
20. 筑井正義『堤康次郎伝』(東洋書館株式会社、昭和30年2月20日)「八 航空輸送の夢」(71~75頁)では、東京・軽井沢間の航空便についてさまざまなエピソードが紹介されています(内容自体には検証すべき点もありますが)。その中においても同航空便の正式航行についての記述はありません。
21. 資料13には「本牧下田間百八キロ所要時間一時間十分で一週二回の定期航空」、「下田清水間六十一キロの新航空路」とあって、箱根土地による航空事業の展開が報じられています。これらの構想のその後については詳らかではありませんが、定期航空便開設の目論見として注目されます。
22. 渡辺彰子『国立に誕生した大学町―箱根土地(株)中島陟資料集―』(株式会社サトウ、平成27年8月2日)74頁。
23. 『古老聞書』(練馬区教育委員会、昭和61年3月20日)「学園町の造成地」132頁。「この、朝霞へ行く道は最初は今より広く、四十間幅に土地を借りて道路を作り、飛行機を飛ばす滑走路の予定に計画された。しかし実現せず、しばらくはその幅だけ一面の草原であったが、後に地主に返された。」との聞き書きが掲載されています。
24. 『国立市史 下巻』(国立市、平成2年5月25日)「商大と町づくりのビジョン」101頁。
25. 関頑亭氏に関し、当館(くにたち郷土文化館)では、『関頑亭―谷保から国立へ―』と題した企画展示を5月26日より開催いたします(6月24日まで)。また、たましん歴史・美術館では、『99歳の彫刻家・関頑亭―声字実相義 耳で見つめ、目で聴く―」展が現在開催中です(7月1日まで)。
26. 『平兵衛新田 むかし・現在“別巻”』(国立駅北口 光商栄会、2011年11月3日)「大学通りの『滑走路伝説』について」182~186頁。
27. 『航空情報 AIREVIEW』572号(酣燈社、平成4年5月1日)83~88頁掲載。
28. 前掲注22の240~246頁掲載「分譲地の売価算定に付て」。なお、この資料では「大正十二年国立建設着手当時の計画書」(241~243頁)が示され、最後辺では「国立の開発に着手して以来既に十八年」(246頁)と、大正12(1923)年が国立開発の起点とされている点でも注目される資料です。
29. 前掲注28掲載資料の246頁。
30. 三田鶴吉『立川飛行場物語(上)』(株式会社けやき出版、1987年3月27日)135・136頁。なお、同書139頁に拠れば、御国飛行練習所は開所から10ヶ月で閉鎖されたようです。
31. 『読売新聞』昭和3年4月2日「御国航空学校 けふ開校式」(『新聞集成 昭和編年史 三年第Ⅱ巻』(明治大正昭和新聞研究会、昭和63年12月9日)26頁掲載)。
32. 前掲注27の平木論稿84頁。
33. 『一橋新聞』には、「二千に近い学校関係者が漸く飛行機が珍しくなくなつた。」との記述(第132号(昭和6年4月27日)5面「国立カラー(1)土地開発から本学の移住へ」)や、「芝生には寝ころんで新聞を見てゐる学生、飛行機を見てゐる学生等時々見受けられる」との記述(第143号(昭和6年11月14日)5面「国立カラー(10)雑草生ひ茂る大通りに『交通安全デー』 一橋大通りの今と未来」)があり、当時の国立地域における飛行機に対する認識が窺われて興味深いものです。
34. 『北信毎日新聞』昭和3年8月29日(渡辺彰子『くにたち:商店街形成史―国立大学町を中心として―』(株式会社サトウ、2000年2月15日)74・75頁掲載内容より)。
35. 『横浜貿易新報』昭和3年8月14日(前掲注27における平木論稿88頁掲載内容より)。
36. 由井常彦編『堤康次郎』(株式会社エスピーエイチ、1996年4月26日)186頁。
37. 大場金太郎『箱根開発の思い出―米寿を迎えて―』(株式会社芦川印刷所、昭和49年7月1日)34頁。なお、同著では「大正十五年四月、芦ノ湖上に飛行機を着水させました」と記しており、新聞報道(昭和3年1月17日着水)とは時期等に相違がみられます。
38. 大正14年11月9日に行われた東京商科大学工事進捗に伴う園遊会や、大正15(1926)年に催された同大学卒業生を招待した国立視察といったイベントにおいて、飛行機から捲いたものと考えられます。