1.はじめに

 当館では、本年5月1日から29日にかけて、「西野家資料展~西野芳寛・寛司関連資料を中心に~」と題した企画展を開催した。この企画展は、昨年度中に西野敏雄氏よりご寄贈いただいた約700点にのぼる西野家の資料について、その一部を公開したものであった。
 西野家資料は、現在も資料の整理・調査を継続して進めているところであるが、今回はその中から台湾鉄道株式会社に関係する資料を取り上げ、同社と西野寛司との関わりや当該資料の内容等についてご紹介したい。

2.西野寛司について

 西野寛司は、1925(大正14)年から1930(昭和5)年まで谷保村の村長を務めた人物である[1]『国立議会史 記述編』(東京都国立市議会、2003.1.24)によれば、1925(大正14)年3月26日の村会において、2月6日に満期退任した村長本田泰助の後任として西野寛司が選ばれ(78頁)、1930(昭和5)年9月15日には、辞意を表明した村長西野寛司の後任に村会議員の佐伯茂作が選出されている(94頁)ことが知られる。
 ちょうどこの時期は、堤康次郎を実権者とした箱根土地株式会社によって、「国立大学町」が形づくられたときでもあった。この時代背景からみて、現在に繋がる国立の形成期において、西野寛司が重要な役割を担った人物のひとりであることが察せられる。しかしながら、西野寛司に関する研究の蓄積は乏しく、その実際の活動等については、いまだ詳らかになっていない部分が多い。
 そのような中、『明治人名辞典 上巻』における西野寛司の掲載内容はひとつの手がかりとなるもので、そこには「〔明治:引用者註〕三十年台湾鉄道設立と共に会計主任に挙げらる」との記述がみられる[2]『明治人名辞典 上巻』(日本図書センター、1990.4.25(底本:古林亀治郎編・発行『現代人名辞典』第2版 中央通信社、1912年))ニ8・9頁 。これに拠れば、西野寛司は台湾鉄道株式会社と何らかの関わりをもっていたとみられるが、それを窺わせる資料が西野家資料の中にも散見されるところである[3]前掲『明治人名辞典 上巻』では、朝野新聞社入社(新朝野新聞発刊)や、韓国台湾塩販売合資会社設立、日本橋葭町郵便局長への任用等の記述もあり、これらの事業等と関係した資料も西野家資料に見受けられる。

3.台湾鉄道株式会社と西野寛司

 台湾鉄道株式会社は、当時日本の植民地であった台湾において、その南北を貫く縦貫鉄道を、民間資本の利用により建設することを企図して計画されたものであった[4]台湾鉄道株式会社に関しては、老川慶喜「台湾縦貫鉄道をめぐる『官設論』と『民切論』」『植民地台湾の経済と社会』(日本経済評論社、2011.9.15)、高橋泰隆『日本植民地鉄道史論 台湾、朝鮮、満州、華北、華中鉄道の経営史的研究』「第一章 台湾鉄道の成立と経営」(日本経済評論社、1995.1.20)、鈴木敏弘「台湾初期統治期における鉄道政策と台湾鉄道株式会社」『明治期日本の光と影』(同成社、2008.11.30)を参考とした。 。1896(明治29)年10月27日に台湾総督府よりその敷設許可を得たものの、株式募集が滞るなど資金調達に苦慮し、結果的に1898(明治31)年10月25日には解散を決するに至っている[5]前掲『明治人名辞典 上巻』の「〔明治〕三十年台湾鉄道設立と共に」とする記述には疑問もあるが、『台湾鉄道史 上』(台湾総督府鉄道部、1910.9.30)446・447頁には、同年2月に本社事務所を東京に設置していることが記されており、あるいは前記の「設立」とはこのことを指しているものかとも考えられる。
 西野寛司がどのような経緯で台湾鉄道株式会社と関わることになったのか、その詳細は現段階ではよく分かっていない。しかしながら、川村惇との繋がりによって同会社に関与することになったのではないかと考えられる。
 川村惇は、台湾鉄道株式会社の常設委員であり[6]前掲『台湾鉄道史 上』446・447頁 、後述する同会社による線路実測等の要務で渡台し、台湾巡視を行った人物である [7]早稲田大学図書館所蔵大隈重信関係資料「台湾鉄道施設視察報告書:〔書写資料〕」(台湾鉄道会社常設委員川村惇、1897年)。なお、『明治人名辞典Ⅱ 上巻』(日本図書センター、1993.2.25(底本:『日本現今人名辞典』 日本現今人名辞典発行所、1900年))に拠れば、川村惇は、台湾鉄道株式会社の当初の創立委員長である安場保和とともに、以前九州鉄道創立に参与していたことが知られる。。その前歴においては、1891(明治24)年2月に朝野新聞に入社しており、同新聞が1893(明治26)年11月に廃刊すると、旧朝野新聞従業員等とともに同年12月23日には「新朝野新聞」の第1号を発行している[8]鵜飼新一『朝野新聞の研究』(みすず書房、1985.9.30)50・53・77頁
 西野寛司も朝野新聞社の社員となっており、その廃刊後には新朝野新聞の社員ともなっていることから[9]前掲『明治人名辞典 上巻』ニ8・9頁、梅澤淺次郎『大日本新聞紙正鑑』(東京堂、1894.7.1)9・10頁(『新聞史資料集成 明治期篇 第7巻』(まゆに書房、1995.5.24)収載)、『新朝野新聞』1894(明治27)年3月9日「謹奉賀 天皇皇后両陛下御結婚満二十五年御祝儀」、『朝野新聞』1895(明治28)年1月3日「新年の御慶目出度申納候」、同1896(明治29)年1月1日「恭賀新年」。 、川村惇とは個人的な繋がりがあったものと考えられ、これが台湾鉄道株式会社に関わる契機となったと推察される。

4.西野家資料

(1)紹介資料①

 西野家資料中、台湾鉄道株式会社に関する資料としてまず紹介するのは、『臨時雇以下解傭之義ニ付上申』と題した資料である。中央に「臨時鉄道掛」[10]高橋泰隆氏は、領有後の台湾の鉄道管理について、「台湾鉄道線区指令部なる軍事組織」による管理の後、「陸軍省臨時台湾鉄道隊→民政局通信部臨時鉄道掛(鉄道敷設部を併置)→総督府鉄道部という変遷をたどった。」と示されている(前掲『日本植民地鉄道史論 台湾、朝鮮、満州、華北、華中鉄道の経営史的研究』22頁)。 と印刷された罫紙3枚に記されており、1897(明治30)年7月1日付で、民政局の福山道雄・楠目成長・板倉鋭丸の3名から同局の小山保政鉄道課長に宛てた上申書の案文あるいは控書とみられるものである。前半の2枚は殆ど人名が列記されるのみで、当該資料の関連性を探る手掛りは少ないが、3枚目にある「今般台北打狗間実測ニ従事為致度候」の文言が注目される。そこで『台湾鉄道史 上』[11]高橋泰隆氏は、「解題『台湾鉄道史』」(『大正期鉄道史資料 <第2集>国有・民営鉄道史 第20巻 台湾鉄道史 下巻』(日本経済評論社、1985.4.20))で、『台湾鉄道史(上、中、下)』について、「清国時代の鉄道から、縦貫線開通までにわたり、殆んど事実の全てを明らかにしており、きわめて貴重な記録となっている。」としている。 を確認すると、1897(明治30)年6月19日に台湾鉄道株式会社創立委員長の安場保和の代理として、同会社の川村惇が「民政局ノ技師技手ヲ暫ク本社ノ嘱託ト為シ実測ヲ担任スルノ許可ヲ与ヘラレムコト」とする出願を、台湾総督府に対して行っていることが確認される[12]前掲『台湾鉄道史 上』449頁。なお、台湾鉄道株式会社解散に伴う「台湾鉄道会社創立事務経過報告書」の中にも当該出願の記載があり(『台湾鉄道史 上』474頁)、それに拠れば、「民政局長水野遵氏及通信部長土居通豫氏」による同会社創業委員への内諭が契機となって出願に至っていることが知られる。 。この出願は、「是日〔6月19日:引用者註〕総督会社ノ請願ニ対シ技師ハ公務ノ傍其ノ監督ヲ為サシメ測量技術員ハ請願ノ通許可」[13]前掲『台湾鉄道史 上』449頁。 するとされ、「測量従事員ハ臨時鉄道掛技術員雇板倉鋭丸、楠目成長、福山道雄以下二十三名同上事務員雇津田鎌三郎以下二名ヲ以テ之ニ充」[14]同上450頁。 てるものとされた[15]前掲『台湾鉄道施設視察報告書:〔書写資料〕』「線路実測請願ノ件」においても、「民政局技師ハ公務ノ傍ラ実測ヲ監督シ技術員ハ都テ会社ノ嘱託ニ応シ実測ニ従事スルコトトナリ」と同内容の記述が確認できる。なお、同報告書では、「同月〔6月:引用者註〕廿一日附ヲ以テ許可ノ指令ヲ得」とあり、『台湾鉄道史 上』449頁・474頁の記述(6月19日許可)と若干の相違がある。
 なお、この測量は、東京に注文した測量機械の到着を待って1897(明治30)年7月8日から着手されており、測量区を台北~中壢・中壢~新竹・打狗~嘉義の3区とし、測量組を3組に分けて行われた。[16]前掲『台湾鉄道施設視察報告書:〔書写資料〕』「線路実測請願ノ件」、前掲『台湾鉄道史 上』450頁。
 これらの点を踏まえて先の西野家資料をみると、台湾鉄道株式会社による実測に従事させるため、鉄道課の職工等をその雇用関係から解くことを鉄道課長の小山保政に上申した内容ではないかと考えられる [17]当該測量は、台北~嘉義間(3区間に分割)で行われることになっているが、西野家資料中では、「台北打狗間」での実測とされており、西野家資料の方が短い区間の表記となっている。
 また、台湾総督府の指令によると、実測に関する費用は台湾鉄道株式会社が負担するものとされているが [18]前掲『台湾鉄道史 上』449頁、同社嘱託員となる測量技術員の俸給に関しては台湾総督府からの支出となっていることが確認される[19]前掲『台湾鉄道施設視察報告書:〔書写資料〕』「線路実測請願ノ件」。西野家資料に列記された職工達は、6月30日付で鉄道課から解雇されており、台湾総督府が俸給を支出する測量技術員として測量に従事したとは考え難い。おそらくは、台湾鉄道株式会社の費用負担により、同会社との雇用関係において測量に従事したのではないかと考えられる。
臨時雇以下解-之義ニ付上申-1 臨時雇以下解-之義ニ付上申-2
臨時雇以下解-之義ニ付上申-3

資料1.『臨時雇以下解傭之義ニ付上申』のサムネイル
資料1.『臨時雇以下解傭之義ニ付上申』(資料写真の翻刻版PDF)

(2)紹介資料②

 ここで西野家資料の中から、『事務及技術分担規程』と題し、中央に「臨時台湾鉄道隊」と印刷された罫紙1枚に認められた資料にも注目してみたい。この資料には、前述の川村惇の出願によって測量従事員とされた板倉鋭丸と津田鎌三郎が、それぞれ技術員または事務員として記され、金銭取扱いのため測量隊の「打狗組ニ附シテ出張セシメ」[20]前掲『台湾鉄道施設視察報告書:〔書写資料〕』「線路実測請願ノ件」 られた台湾鉄道株式会社社員の奈良崎八郎も「応接及現金渡方」事務員としてみえている。さらに、先の西野家資料(資料①)において「第参組(板倉)」内の「臨時雇」とされていた井上貞次郎が「留守番及通訳」として、同じく「小使」とされていた飯尾松太郎・横井助太郎・久家幸次の3名が「役員賄 炊事」、中野亀太郎が「工夫賄 炊事」として、いずれも事務員に含まれていることが確認される。これらの資料に登場する人物の共通点からみて、当該『事務及技術分担規程』は、前述の台湾鉄道株式会社の測量に係る規定ではないかと考えられるものである。
この資料(資料②)では、先の西野家資料(資料①)で「第参組(板倉)」内の「職工」として列記されていた者は、1人としてその名が挙がっていない。測量に係る編成に関し、当時「一組技師外事務員八名工夫三十余名合せて四十人」[21]『台湾新報』1897(明治30)年7月4日「台湾鉄道株式会社」。なお、前掲『台湾鉄道史 上』450頁にも「一組ノ員数ハ工夫ヲ合セテ四十人許トシ」との記述がみられる。と報じられている点からすれば、先の「職工」であった者達は、「工夫」[22]当該「工夫」が具体的にいかなる労務に従事したのかは詳らかでないが、前掲『台湾鉄道施設視察報告書:〔書写資料〕』「実測ニ付地方人民ニ諭達ノ件」において、「線路ノ実測ニ着手スル以上ハ其沿道ノ竹木ヲ伐採シ或ハ民家ノ牆壁ヲ破壊スル等ノコトアルベク」との記述がみられ、これら実測に伴う諸々の工作を担ったものと考えられる。 として測量に参画したのではないかと考えられる。
事務及技術分担規程

資料2.『事務及技術分担規程』のサムネイル
資料2.『事務及技術分担規程』(資料写真の翻刻版PDF)

(3)測量の経緯

 上記の台湾鉄道株式会社による測量については、当時の新聞記事でもその経緯を報じており、測量開始の翌月(1897(明治30)年8月)には、実測に着手した区間を「遅くも来九月末日迄に全部を決了し他区の実測ハ暫時中止し成る可く測量済の線路布設を取急ぎ着手する方針なり」と伝えたものもみられる[23]『東京朝日新聞』1897(明治30)年8月21日「台湾鉄道近況」。なお、『台湾新報』1897(明治30)年7月21日「台湾鉄道会社の用意」や、同1897(明治30)年7月29日「基隆嶺の鉄道測量」の記事では、前掲『台湾鉄道施設視察報告書:〔書写資料〕』における「実測ニ付地方人民ニ諭達ノ件」や「軍隊護衛ノ件」と符合する内容を伝えたものもみられる。 。結果的に、1898(明治31)年2月には、予定測量区間の一部を除いて測量を終えたようであり、「台北中壢間」、「中壢新竹間」、「打狗林鳳営間」の各報告書が『台湾鉄道史 上』に掲載されている[24]前掲『台湾鉄道史 上』453頁~467頁。打狗・嘉義間の測量については、「曾文渓ヨリ嘉義ニ達スルノ間時ニ土匪出没シ業ヲ進ムルコト能ハサル」ことにより、打狗・林鳳営間の測量を終えたところで中止されている。

5.おわりに

 この度の西野家資料の紹介は、紹介者の知識不足・調査不足により不十分な内容となったことをお許しいただきたい。十分な資料批判を加えず推論に推論を重ねたところや、理解不足のまま論を進めた部分も多く、“見切り発車”の感が否めない。しかしながら、この資料を多くの方にお知らせすることで、新たな情報・関連事項をご教示いただける契機となり得るのではないかとの思いから、拙い内容ながら紹介させていただいた。従って、紹介した西野家資料についてはもちろん、当該資料の関連事項等について、ご批判やご指摘を頂戴できれば、この上もない幸せである。
西野家資料には、興味深い資料が数多く含まれている。今後も調査を進めつつ、機会をみて資料をご紹介させていただくことができればと考えている。

※:引用文中における旧字体は、断りなく新字体に改めている。
(担当:中村)

※脚 注

※脚 注
↑本文へ1 『国立議会史 記述編』(東京都国立市議会、2003.1.24)によれば、1925(大正14)年3月26日の村会において、2月6日に満期退任した村長本田泰助の後任として西野寛司が選ばれ(78頁)、1930(昭和5)年9月15日には、辞意を表明した村長西野寛司の後任に村会議員の佐伯茂作が選出されている(94頁)ことが知られる。
↑本文へ2 『明治人名辞典 上巻』(日本図書センター、1990.4.25(底本:古林亀治郎編・発行『現代人名辞典』第2版 中央通信社、1912年))ニ8・9頁
↑本文へ3 前掲『明治人名辞典 上巻』では、朝野新聞社入社(新朝野新聞発刊)や、韓国台湾塩販売合資会社設立、日本橋葭町郵便局長への任用等の記述もあり、これらの事業等と関係した資料も西野家資料に見受けられる。
↑本文へ4 台湾鉄道株式会社に関しては、老川慶喜「台湾縦貫鉄道をめぐる『官設論』と『民切論』」『植民地台湾の経済と社会』(日本経済評論社、2011.9.15)、高橋泰隆『日本植民地鉄道史論 台湾、朝鮮、満州、華北、華中鉄道の経営史的研究』「第一章 台湾鉄道の成立と経営」(日本経済評論社、1995.1.20)、鈴木敏弘「台湾初期統治期における鉄道政策と台湾鉄道株式会社」『明治期日本の光と影』(同成社、2008.11.30)を参考とした。
↑本文へ5 前掲『明治人名辞典 上巻』の「〔明治〕三十年台湾鉄道設立と共に」とする記述には疑問もあるが、『台湾鉄道史 上』(台湾総督府鉄道部、1910.9.30)446・447頁には、同年2月に本社事務所を東京に設置していることが記されており、あるいは前記の「設立」とはこのことを指しているものかとも考えられる。
↑本文へ6 前掲『台湾鉄道史 上』446・447頁
↑本文へ7 早稲田大学図書館所蔵大隈重信関係資料「台湾鉄道施設視察報告書:〔書写資料〕」(台湾鉄道会社常設委員川村惇、1897年)。なお、『明治人名辞典Ⅱ 上巻』(日本図書センター、1993.2.25(底本:『日本現今人名辞典』 日本現今人名辞典発行所、1900年))に拠れば、川村惇は、台湾鉄道株式会社の当初の創立委員長である安場保和とともに、以前九州鉄道創立に参与していたことが知られる。
↑本文へ8 鵜飼新一『朝野新聞の研究』(みすず書房、1985.9.30)50・53・77頁
↑本文へ9 前掲『明治人名辞典 上巻』ニ8・9頁、梅澤淺次郎『大日本新聞紙正鑑』(東京堂、1894.7.1)9・10頁(『新聞史資料集成 明治期篇 第7巻』(まゆに書房、1995.5.24)収載)、『新朝野新聞』1894(明治27)年3月9日「謹奉賀 天皇皇后両陛下御結婚満二十五年御祝儀」、『朝野新聞』1895(明治28)年1月3日「新年の御慶目出度申納候」、同1896(明治29)年1月1日「恭賀新年」。
↑本文へ10 高橋泰隆氏は、領有後の台湾の鉄道管理について、「台湾鉄道線区指令部なる軍事組織」による管理の後、「陸軍省臨時台湾鉄道隊→民政局通信部臨時鉄道掛(鉄道敷設部を併置)→総督府鉄道部という変遷をたどった。」と示されている(前掲『日本植民地鉄道史論 台湾、朝鮮、満州、華北、華中鉄道の経営史的研究』22頁)。
↑本文へ11 高橋泰隆氏は、「解題『台湾鉄道史』」(『大正期鉄道史資料 <第2集>国有・民営鉄道史 第20巻 台湾鉄道史 下巻』(日本経済評論社、1985.4.20))で、『台湾鉄道史(上、中、下)』について、「清国時代の鉄道から、縦貫線開通までにわたり、殆んど事実の全てを明らかにしており、きわめて貴重な記録となっている。」としている。
↑本文へ12 前掲『台湾鉄道史 上』449頁。なお、台湾鉄道株式会社解散に伴う「台湾鉄道会社創立事務経過報告書」の中にも当該出願の記載があり(『台湾鉄道史 上』474頁)、それに拠れば、「民政局長水野遵氏及通信部長土居通豫氏」による同会社創業委員への内諭が契機となって出願に至っていることが知られる。
↑本文へ13 前掲『台湾鉄道史 上』449頁。
↑本文へ14 同上450頁。
↑本文へ15 前掲『台湾鉄道施設視察報告書:〔書写資料〕』「線路実測請願ノ件」においても、「民政局技師ハ公務ノ傍ラ実測ヲ監督シ技術員ハ都テ会社ノ嘱託ニ応シ実測ニ従事スルコトトナリ」と同内容の記述が確認できる。なお、同報告書では、「同月〔6月:引用者註〕廿一日附ヲ以テ許可ノ指令ヲ得」とあり、『台湾鉄道史 上』449頁・474頁の記述(6月19日許可)と若干の相違がある。
↑本文へ16 前掲『台湾鉄道施設視察報告書:〔書写資料〕』「線路実測請願ノ件」、前掲『台湾鉄道史 上』450頁。
↑本文へ17 当該測量は、台北~嘉義間(3区間に分割)で行われることになっているが、西野家資料中では、「台北打狗間」での実測とされており、西野家資料の方が短い区間の表記となっている。
↑本文へ18 前掲『台湾鉄道史 上』449頁
↑本文へ19, ↑本文へ20 前掲『台湾鉄道施設視察報告書:〔書写資料〕』「線路実測請願ノ件」
↑本文へ21 『台湾新報』1897(明治30)年7月4日「台湾鉄道株式会社」。なお、前掲『台湾鉄道史 上』450頁にも「一組ノ員数ハ工夫ヲ合セテ四十人許トシ」との記述がみられる。
↑本文へ22 当該「工夫」が具体的にいかなる労務に従事したのかは詳らかでないが、前掲『台湾鉄道施設視察報告書:〔書写資料〕』「実測ニ付地方人民ニ諭達ノ件」において、「線路ノ実測ニ着手スル以上ハ其沿道ノ竹木ヲ伐採シ或ハ民家ノ牆壁ヲ破壊スル等ノコトアルベク」との記述がみられ、これら実測に伴う諸々の工作を担ったものと考えられる。
↑本文へ23 『東京朝日新聞』1897(明治30)年8月21日「台湾鉄道近況」。なお、『台湾新報』1897(明治30)年7月21日「台湾鉄道会社の用意」や、同1897(明治30)年7月29日「基隆嶺の鉄道測量」の記事では、前掲『台湾鉄道施設視察報告書:〔書写資料〕』における「実測ニ付地方人民ニ諭達ノ件」や「軍隊護衛ノ件」と符合する内容を伝えたものもみられる。
↑本文へ24 前掲『台湾鉄道史 上』453頁~467頁。打狗・嘉義間の測量については、「曾文渓ヨリ嘉義ニ達スルノ間時ニ土匪出没シ業ヲ進ムルコト能ハサル」ことにより、打狗・林鳳営間の測量を終えたところで中止されている。