青春時代を国立で過ごした田村一行さん(作・出演・演出)。現在につながる当時の思い出を語っていただきました。

桐朋中高時代に師匠・麿赤兒を知る

母が演劇好き、父が英米文学研究者という家で、機会があれば小さい頃から劇場には行っていました。中高時代になると土曜は剣道部の部活後に劇場へ行き、並んで安い学生券買って舞台を観る、をしょっちゅう。原作がある作品なら原作を読んで、舞台でどう上演されるのかを楽しんでいました。そのころ衝撃を受けたのが夢の遊眠社にいた上杉祥三さんのプロデュース公演で、小学生の頃全然理解できなかったコトバ遊びやアレンジを面白く感じ、舞台が凄く好きになりました。

そんな中で麿さんを舞台で観ることになります。忘れもしない、鴻上尚史さんの作品でこの人何者?  と。その頃欠かさず録画していた舞台中継のテレビ番組で知った大駱駝艦という、凄い世界と生・麿さんがリンク。とんでもない存在と出会った瞬間でした。

出会いが紡がれ

毎年学園祭に装飾委員として垂れ幕などを描いていましたが、ある年美術の先生から教育実習の模擬授業をやりたいので委員会で受けるよう頼まれました。その授業というのが舞踏やアングラ演劇などを扱ったもので、その実習の先生に「舞台好きで、大駱駝艦とか興味あるんです」と言ったら「じゃあうちに来なよ」となって福井のお宅に一人で訪ねました。一晩中芸術談義で、資料を山ほど借りてリュックをパンパンにして帰りました。それからは舞台だけでなく、教えてもらったたくさんの面白そうな映画や展覧会などにも足を運ぶようになって、よりディープな芸術の世界にグワーッと入り込んだ感じでした。

実際に芝居をやりたかったのですが、桐朋は演劇部がなかったので、高三の文化祭の時に教室を一部屋借りて、僕の作・演出でお芝居をやったりしました。他にも劇団主催の中高校生向けワークショップに参加したりもしていましたが、その劇団では、ゆくゆく大駱駝艦から独立した先輩と知り合うことになったりします。色々な縁がギューッと一つの所に集まって、やはり大駱駝艦にたどり着く運命だったのだと思います。

進路希望は大駱駝艦

大駱駝艦を観た時、他の舞台作品を観た時と明らかに異なっていたのは「面白い」とか「感動した」のはもちろんですが、それよりも何よりも「向こうに行きたい」と思ったことです。「踊りたい」というだけの感覚とは少し違っていて「ちょっとでも早くあの世界で生きたい」と感じました。高三の進路相談で先生に「大駱駝艦入りたいんです」といったら「なんだ田村それは?」って(笑)。

大学教授の父にも「やりたいことがあるのはいいけど行きたい大学はないのか?」と言われました。

それで色々と調べていたらどこかで見覚えのある名前を見つけて、それが大野一雄さんの『ラ・アルヘンチーナ頌』の初演評を書かれた中村文昭先生の名前でした。「こういう踊りをこういう言葉で表現する人がいるんだ!」と強く印象に残っていたんです。で、先生がおられる日大芸術学部文芸学科を選びました。

入学後、自動で振り分けられたのが何と中村先生のゼミ。「君達はなんでこの大学に来たんだ?」と最初のゼミで一人一人聞かれた時「先生の大野一雄さんの評を読んできました」と言ったらとても驚かれていたのを覚えています。こうして始まった大学時代から大駱駝艦に出入りするようになり、かれこれあっという間に四半世紀が過ぎようとしているわけです。

国立でしか創れない『私家版 浪漫歴程』

国立での創作は2回目、4年ぶりです。前回は宣伝写真を母校で撮影しました。20数年ぶりの訪問は当時の感覚を生々しく思い出させてくれました。お芝居がやりたいのか踊りたいのか詩が書きたいのか、まだ出会っていない何かとこれから出会うのか。自分がしたい何かが分からないのにとにかく何かがしたい、悶々とした得体の知れないエネルギーに満ちた、The思春期でした。今日も通学路をたどって来て、(今の活動拠点である)吉祥寺よりもホームに帰ってきたな、と感じました。

これまで各地にまつわる伝承や民話などを多く題材にしてきましたが、此処国立でやるなら自分自身に立ち返り、一番恥ずかしいけれど色々な思いに溢れていた中高時代と向き合うしかないな、と思いました。お客さんもみんな赤面するような、でも目をそらしちゃだめですよ! って。それが僕一人の話ではなくて、普遍的に感じられるような作品になればいいなと思っています。