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 国立市広報担当から当館に移管された写真資料からピックアップしてのご紹介。
今回は、当財団広報誌『オアシス』4・5月号に掲載する写真などを取りあげてご紹介いたします。


 この写真は、1962(昭和37)年頃の春、桜咲く大学通りから国立駅方向に向けて撮影された1枚です[1]当館所蔵写真に表示のある「ファイル№」とは、営利を目的としない写真の利用に供するため、くにたち郷土文化館に保存されている電子データのファイル番号を表示したものです。。奥には旧国立駅舎が、また左手には同年に完成した多摩信用金庫国立支店のビルを確認することができます。
 この写真とほぼ同じ場所から、約2年前に撮影したのが下の写真です。現在進行中の旧国立駅舎の再築工事はまだ始まっていませんから、奥には中央線高架の側壁が直接見えている状態です。
 上の写真と比べると、時代を経て周辺の景観は大きく変化しています(多摩信金国立支店も1986(昭和61)年建設のビルになっています)。ただ、大学通りから国立駅方向へ視線を向けた際、大学通りのアイストップであった旧国立駅舎が消失した眺めは、通りからの視線を受け止めてくれるものがない、そんな構図に感じられてしまうのですが、いかがでしょうか?通りの先に「赤い三角屋根」があると、“納まり”が良いように感じられはしないでしょうか。

 さて、今や春の大学通りで市内外の多くの方々を楽しませている桜並木。この桜の植樹は、はじめは町の発展策として企図されたものだったようです。
 1933(昭和8)年6月12日の『一橋新聞』には、「本科移転以来すでに三年を閲みした国立も一向にめざましい発展をしないので」、町会役員と東京商科大学(現一橋大学)の学生有志で協議し、「一橋大通り駅前から谷保天神まで四百間の道路の両側に山桜の一種で上品な赤目桜を約百本植ることになり、小金井の花見客を国立に吸収しようとする遠大な理想(?)を抱いてゐる」[2]『一橋新聞』第170号(昭和8年6月12日)3面「貸地紹介と桜並木 町会自慢の発展策二つ」。と報じられています[3]大学通りのイチョウ並木と桜並木について、また本稿で紹介した『一橋新聞』の記事については、田﨑宣義「一橋大学とイチョウ その4」(一橋植樹会「寄稿文」:http://jfn.josuikai.net/circle/shokujukai/kikobun/11/201106_2.htm)に拠ったものです。
 その後この計画がどのような経緯をたどったのかは詳らかではありませんが[4]前掲注3の寄稿文では、「赤目桜案は地質が不適ということで流れ」たことが示されています。、翌年(1934・昭和9)1月28日、国立大学町の町内会に相当する国立町会の役員会において、「皇太子殿下御誕生奉祝記念事業として町民の赤誠こめた寄附金三百圓で一橋大通りに桜並木を植えること」[5]『一橋新聞』第184号(昭和9年3月12日)2面「くにたち」。なお、渡辺彰子『くにたち:商店街形成史―国立大学町を中心として―』(株式会社サトウ、2000年2月15日)P.70では、1933(昭和8)年12月23日に記念植樹が決定、翌年4月24日から植樹がはじめられ1935(昭和10)年までかかったものと紹介されています。が決せられます。そして、1934年から翌年(昭和9年から翌10年)にかけて、国立町会によって大学通りに桜が植樹されていくことになります[6]関栄一「花の名所は数々あるが おらの桜が日本一」(国立の自然と文化を守る会会報『くにたちの自然と文化』第4号、平成4年4月、P.1)。なお、前掲注5の『一橋新聞』第184号では、「既に赤目桜の苗木植付けにかゝつた」との記述があることから、1934(昭和9)年3月頃には植樹がはじまっていた可能性が考えられますが、その開始の時期を確定しうる資料を見い出せていません。。なお、この植樹に際しては、「会計担当者の関喜太郎((株)せきやの創業者)と幹事の小野照吉(箱根土地(株)社員開発工事監督)の両名が選ばれて苗木の買付から植付の指図一切を担当した」ものとされています[7]前掲注6関栄一「花の名所は数々あるが おらの桜が日本一」。

 上の写真は、1934年から翌年にかけて行われた桜の植樹に際して撮影されたと考えられる1枚で、右側には植樹されたとみられる苗木に「奉祝紀〔ママ〕念」と記した立て札が据えられているのが確認できます。
この桜の植樹やその管理作業には青年団の活動による下支えがあったようで、「植付けられた苗木の根元の草取りや施肥には、我々、谷保村青年団国立支部の面々が出動し、作業に当たったのである」[8]前掲注7と同じ。という証言が残されています。
 また、『谷保村青年団下谷保支部記録』には、1934(昭和9)年4月22日に開催された臨時総会の議題に、下谷保氏子総代人より支部の青年に対して、「国立道路ヘ桜植付ニ付」いて10名の参加依頼があったことがみられ、当日の晩には都合のついた10名の参加が決められています[9]『谷保村青年団下谷保支部活動記録 付・下谷保講中共有文書目録』(くにたち中央図書館、昭和60年3月30日)P.92。
 その翌々日の24日には、実際に大学通りの桜の植樹が行なわれたようで、支部の青年12名(総会決定時より2名増)が、自分の道具を持参して、朝7時より午後5時半頃まで植樹作業をしたことが記録されています。
下の写真は、当館が所蔵する『谷保村青年団下谷保支部記録』の写真です。赤線で囲んだところに4月24日当日の作業の様子などが記されています。

『谷保村青年団下谷保支部記録』くにたち郷土文化館所蔵

 この日の作業後、手伝いに参加した支部の人へ桜植樹の責任者から「金拾円」が払われており、そのお金について参加者で協議しています。その結果、半額の5円を支部の基金として出し、残金で参加した12名の慰労のため「茶菓子会」を催すことに決め、「夜ワ事務所ニテ座談的模様ニテ過シタリ」と記されています。
 この12名から支部基金に出された5円については、『下谷保青年会計簿』に記録があり、「三十間道路ノ桜植ニ出タル拾貮名ヨリ寄附」として、4月27日に5円を収納していることが知られます(下の写真の矢印の部分の行に記されています)。

『下谷保青年会計簿』くにたち郷土文化館所蔵

 この「皇太子殿下御誕生奉祝記念事業」として行なわれた桜の植樹に伴い、既に西側の緑地帯に一橋会によって2列交互に植えられていたイチョウ並木[10]『一橋新聞』第143号(昭和6年11月14日)5面「国立カラー(10)」。なお、同記事では、イチョウを2列交互に植えたのは、東京商科大学の佐野学長による指示であったとしています。は、その1列が東側へと移植されることとなり[11]前掲注5『一橋新聞』第184号。 、歩道側にイチョウ並木が、車道側には桜並木がみられる現在の大学通りのかたちが出現してくることとなります。

 今や春の大学通りの風物詩でもある桜咲き誇るその並木。そこには先人の営為[12]「谷保村青年団下谷保支部記録」では、1936(昭和11)年3月29日の臨時総会に「国立天満宮前の道路桜樹植替ノ件」が議題としてあがり、翌30日には「昨夜決定せる桜植に役員並支部員若干名出席せり、風に苦るしみ乍らも元気盛にして早く終る」との記述が確認されます。またこのことは「下谷保女子青年団記録簿」でも記録されており、同年3月29日に「明日青年の手で三十間道路の桜を植へかへたり、くひを打ったりし」と同内容の記述が認められます。とそれを受継ぎ伝えてきた人々の活動の歴史があります。そして現在も「くにたち桜守」やその活動を支える多くの人々の力によって、この大学通りを彩る桜並木を、次の世代へと引き渡すべく努力が続けられているのです。
 来る3月31日には国立市観光まちづくり協会・立川観光協会の主催による「春うらら国立・立川 さくらウォーキング」が開催されます。

 このウォーキングには、国立の大学通りももちろんコースに入っています。大学通りの桜を愛でながら、その歴史にちょっと想いを馳せてみるのはいかがでしょうか。また、くにたち郷土文化館もウォーキングコースのほぼ中間地点の散策経路となっていますので、ぜひとも当館にもお立ち寄りください。

【2019.03.01 中村記】

※脚 注   [ + ]

1. 当館所蔵写真に表示のある「ファイル№」とは、営利を目的としない写真の利用に供するため、くにたち郷土文化館に保存されている電子データのファイル番号を表示したものです。
2. 『一橋新聞』第170号(昭和8年6月12日)3面「貸地紹介と桜並木 町会自慢の発展策二つ」。
3. 大学通りのイチョウ並木と桜並木について、また本稿で紹介した『一橋新聞』の記事については、田﨑宣義「一橋大学とイチョウ その4」(一橋植樹会「寄稿文」:http://jfn.josuikai.net/circle/shokujukai/kikobun/11/201106_2.htm)に拠ったものです。
4. 前掲注3の寄稿文では、「赤目桜案は地質が不適ということで流れ」たことが示されています。
5. 『一橋新聞』第184号(昭和9年3月12日)2面「くにたち」。なお、渡辺彰子『くにたち:商店街形成史―国立大学町を中心として―』(株式会社サトウ、2000年2月15日)P.70では、1933(昭和8)年12月23日に記念植樹が決定、翌年4月24日から植樹がはじめられ1935(昭和10)年までかかったものと紹介されています。
6. 関栄一「花の名所は数々あるが おらの桜が日本一」(国立の自然と文化を守る会会報『くにたちの自然と文化』第4号、平成4年4月、P.1)。なお、前掲注5の『一橋新聞』第184号では、「既に赤目桜の苗木植付けにかゝつた」との記述があることから、1934(昭和9)年3月頃には植樹がはじまっていた可能性が考えられますが、その開始の時期を確定しうる資料を見い出せていません。
7. 前掲注6関栄一「花の名所は数々あるが おらの桜が日本一」。
8. 前掲注7と同じ。
9. 『谷保村青年団下谷保支部活動記録 付・下谷保講中共有文書目録』(くにたち中央図書館、昭和60年3月30日)P.92。
10. 『一橋新聞』第143号(昭和6年11月14日)5面「国立カラー(10)」。なお、同記事では、イチョウを2列交互に植えたのは、東京商科大学の佐野学長による指示であったとしています。
11. 前掲注5『一橋新聞』第184号。
12. 「谷保村青年団下谷保支部記録」では、1936(昭和11)年3月29日の臨時総会に「国立天満宮前の道路桜樹植替ノ件」が議題としてあがり、翌30日には「昨夜決定せる桜植に役員並支部員若干名出席せり、風に苦るしみ乍らも元気盛にして早く終る」との記述が確認されます。またこのことは「下谷保女子青年団記録簿」でも記録されており、同年3月29日に「明日青年の手で三十間道路の桜を植へかへたり、くひを打ったりし」と同内容の記述が認められます。