国立市広報担当から当館に移管された写真資料からピックアップしてのご紹介。
しばらくご紹介できておりませんでしたが、この度は当財団広報誌『オアシス』10・11月号に掲載した写真を取りあげます。
この写真は、1961年(昭和36)9月30日に撮影された1枚です。
現在の富士見台地区を空撮したものですが、富士見台地区の区画整理や団地建設工事はまだ始まっておらず、一面に畑などが広がっています。現在の景色とあまりにも違うのに驚かれる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
写真をよく見ると、奥には一橋大学の附属図書館時計塔や兼松講堂がみえています。その左側のさらに奥には、国分寺の鉄道技術研究所(後の鉄道総合技術研究所)の建物も写っているのですが、お分かりになりますでしょうか。
畑の広がる中にポツンと中央にみえている建物。これは当時の国立町役場です。
現在、この場所にはくにたち市民総合体育館・芸術小ホールが所在しています。
この国立町役場の建物、元来は谷保村役場として建設されたものでした。
1936年(昭和11)11月2日の村会で、甲州街道沿いにあった村役場を南武線北側に移転することが決まり、その建築費として西野寛治氏(役場本館)・本田憲一氏(倉庫)・遠藤喜一郎氏(附属家屋)からの個人寄付を受け入れることで建設された役場だったのです(移転は翌年の1937年(昭和12)1月30日)。
なお、本田家資料にはこの村役場新築に関する新聞記事の切り抜きが残されており、それには新しい村役場が、「近く谷保駅と矢川駅の中間で眺望絶佳の高台に新築する事」となり、その建物は「二階建木造、延坪百四十坪の豪壮な現代風が新築される」と報じられています。加えて、甲州街道沿いにあったとされる移転前の村役場の写真が掲載されており、その外観が確認できる点で資料的に貴重なものです。
1936年(昭和11)に建てられた役場は、1977年(昭和52)8月22日に現庁舎で市役所業務が開始されるまで、村役場から町役場へ、町役場から市役所へとその名を変えつつ利用されていました。当時の新庁舎での業務開始を報じた『市報くにたち』№325(昭和52年9月5日発行)には、この建物への愛着をうかがわせる次のような文が掲載されています。
「昭和11年11月に建設された谷保村役場。40年あまりの歳月を、村から町へ、町から市への移り変わりの中でつぎはぎだらけになり、迷路、老朽、狭いなどの悪評を受けながらも、それなりに親しまれてきた建物でした。いま新庁舎へと、そのあとを引き継いで、長い間の役目を終りました。」
くにたち市民芸術小ホール前の植え込みの中には、現在も昭和11年の村役場新築記念の石碑がひっそりと佇み、この場所の来歴を示しています。
植え込みの中にあるため、石碑の銘文をすべて確認することは難しいのですが、
表に「新築記念」、
裏に「寄贈
役場本館 一棟 西野寛司
石造倉庫 一棟 本田憲一
附属建物 一棟 遠藤喜一郎
昭和十一年十一月二十一日 谷保村建之」
と記されています。
芸術小ホールや総合体育館、あるいは谷保第四公園などにお越しの際には、まちの歴史を物語っているこの石碑にちょっと注目してみてください。
※脚 注
↑本文へ1 | 当館所蔵写真に表示のある「ファイル№」とは、営利を目的としない写真の利用に供するため、くにたち郷土文化館に保存されている電子データのファイル番号を表示したものです。 |
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