国立市役所前踏切 1965(昭和40)年頃
この踏切の風景は、線路の向こう側に目をやらなければ、今もそれほど変わっていません。
この踏切の風景は、線路の向こう側に目をやらなければ、今もそれほど変わっていません。
近い昔のくにたち散歩、今回は北地区へ。
手前の柵に沿って、鉄道技術研究所への引き込み線がありました。
東京女子体育大学の歴史は、わが国の女子体育の苦闘と発展を象徴しています。
国立が、1958(昭和33)年に立川市から打診された合併案を断り、独自に多摩地区で15番目の市制を施行したのは、1967(昭和42)年1月1日。
第14回国民体育大会東京大会大会旗継走 1959(昭和34)年10月
『ふるさと国分寺のあゆみ』(国分寺市史編さん委員会)という資料によれば、このガードは、国立開発間もない頃に、箱根土地株式会社、国分寺村、谷保村が、資金を出し合って拡張整備されたとあります。
中央線沿いに立川境まで続く通りの舗装工事は、1957年4月に着工し、翌年完成しました。
大学通りから見た富士見台交差点の風景。バス停の表示は「音高・国高前」です。右側にちょっとだけ見えているのが音高の校舎です。
高架化される前の中央線には、国立・立川間に五か所の踏切がありました。これは国立駅から四番目の国立踏切の様子。
矢川駅が橋上駅になるのは1965(昭和40)年。西国立までの複線化が完成するのはその翌年です。しかし北口の開設は、矢川団地が造成された後の1974(昭和49)年と遅れています。
左手は一橋大学の構内。富士見通りから市役所へ行く道を望む。この道は、富士見台団地ができる前から、“役場”に通じる道として古い地図にも記載があります。
前回に続き高いところからの眺めを。