【資料紹介】旧国立駅舎箱根土地の専用駅:印刷はこちらから(PDF)

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はじめに

 JR中央線の国立駅は令和8(2026)年4月1日に開業100周年を迎えます。現在、国立駅南口に建つ「旧国立駅舎」は、約100年前の国立駅開業当時に建築された駅舎を再築したもので、中央線の高架化工事に伴って平成18(2006)年に解体されるまで、ほぼ80年の歳月を駅舎として利用されてきた建物です。再築にあたっては、解体後に大切に保管されていた部材を再利用し[1]国立新書第2号『旧国立駅舎』(国立市役所政策経営部、2022年)142頁で、再築にあたり再利用可能と判断された部材への補修等により「創建当初の部材のうち本数基準で68.2%、材積基準で74.8%を再利用することが可能となりました」と述べています。、創建当時の姿に復して、ほぼ元あった場所へと戻されました(写真)。

写真 オープン2年目間近の旧国立駅舎 令和4(2022)年4月1日撮影

 国立駅は、箱根土地株式会社(以下「箱根土地」とします)が開発した分譲地「国立大学町」の玄関口として、大正14(1925)年4月7日に同社の専務取締役であった堤康次郎氏の名で停車場の設置が請願され、同年10月30日に許可されています[2]箱根土地株式会社の常務取締役などを歴任した中島陟氏の遺された資料群にある「国立駅設置経過」(渡辺彰子『国立に誕生した大学町―箱根土地(株)中島陟資料集―』126頁掲載)に、「停車場設置請願 大正十四年四月七日」「請願者 箱根土地株式会社 専務取締役 堤康次郎」「設置許可 大正十四年十月三十日」と記されています。。神田一ツ橋の地から、国立大学町に移転する東京商科大学(現 一橋大学)にとっても、停車場の新設は、移転に際しての重要な要件であったようです。堤氏の名で停車場の設置請願がされた約1週間後の4月15日には同大学の佐野善作学長が、「建築材料ノ運搬学生生徒ノ通学其他ノ便宜」のためとして停車場新設を鉄道省へ請願しています[3]依光良馨『大学昇格と籠城事件』(如水会、1989年)273頁
 国立駅の新設では、設置の請願から許可されるまでの間が約半年でした。この点について、「数百の停車場設置の請願が十数年前から出てゐる」という状況にあって、短期間で設置が許可されたことを、「こんなに手取り早くラチの明いたことは全く未曾有のことである」と論じ、「国有鉄道は一私設会社の提灯持をして地価を釣上げたとさへいはれてゐる」と痛烈に非難した記事が、国立駅開業前の2月、東京日日新聞へ掲載されました(資料1)[4]『東京日日新聞』(大正15・1926年2月26日)7面「武蔵野の真ン中へ不思議な停車場 国分寺立川両駅間に四月から 誰が乗るやら降りるやら 寄付で出来る新駅」。この記事については2019年に資料紹介をしていますが[5]「国立駅開設工事から開業へ:新聞記事等による資料紹介」(当館 HP「郷土文化館 机上のメモから」)https://kuzaidan.or.jp/province/curator-info/国立駅開設工事から開業へ:新聞記事等による資/、当時の状況を知るために参考となりそうな記事を新たにみつけましたので、前回の資料紹介の続報として紹介します。

資料1 『東京日日新聞』 朝刊(大正15・1926年2月26日)
7面掲載写真 国立国会図書館所蔵

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↑本文へ1 国立新書第2号『旧国立駅舎』(国立市役所政策経営部、2022年)142頁で、再築にあたり再利用可能と判断された部材への補修等により「創建当初の部材のうち本数基準で68.2%、材積基準で74.8%を再利用することが可能となりました」と述べています。
↑本文へ2 箱根土地株式会社の常務取締役などを歴任した中島陟氏の遺された資料群にある「国立駅設置経過」(渡辺彰子『国立に誕生した大学町―箱根土地(株)中島陟資料集―』126頁掲載)に、「停車場設置請願 大正十四年四月七日」「請願者 箱根土地株式会社 専務取締役 堤康次郎」「設置許可 大正十四年十月三十日」と記されています。
↑本文へ3 依光良馨『大学昇格と籠城事件』(如水会、1989年)273頁
↑本文へ4 『東京日日新聞』(大正15・1926年2月26日)7面「武蔵野の真ン中へ不思議な停車場 国分寺立川両駅間に四月から 誰が乗るやら降りるやら 寄付で出来る新駅」
↑本文へ5 「国立駅開設工事から開業へ:新聞記事等による資料紹介」(当館 HP「郷土文化館 机上のメモから」)https://kuzaidan.or.jp/province/curator-info/国立駅開設工事から開業へ:新聞記事等による資/