市制施行50周年記念写真集『くにたち あの日、あの頃―写真に見る少し昔のくにたち―』からピックアップした写真のご紹介です[1]当館所蔵写真に表示のある「ファイル番号」とは、営利を目的としない写真の利用に供するため、くにたち郷土文化館に保存されている電子データーのファイル番号を表示したものです(写真集でも当館が電子データーを所蔵しているものは、ファイル番号の表記をしています)。。
先日、昭和32(1957)年5月13日から行われた給水活動の写真をご紹介[2]当館HP「くにぶんブログ」平成29(2017)年10月10日掲載分しましたが、今回の写真は翌年の昭和33(1958)年6月26日から8月7日に行われた給水活動[3]『国立町報』第49号〔昭和33(1958)年9月1日発行〕P3「町民に喜ばれた給水 1日最高700世帯に給水」。を撮影したものです(写真集P120下段掲載写真:8-2)。
町報[4]前掲注3と同じ。に拠れば「本年〔昭和33年:引用者〕は五〇年ぶりの異常渇水といわれ、町内のあちこちで井戸水の干上がったご家庭がありました」という状況にあったようで、給水活動の範囲も前年の東地区を中心としたものよりも広範囲に亘り、東地区・中地区・北地区での給水活動がより長期間行われたことが報じられています。
前回ご紹介したとおり、昭和34(1959)年3月より開始された国立町の上水道事業は、給水区域の拡張などを通じて順次整備がなされていくことになります。それ以前の井戸水に生活用水を依存していた頃では、降雨量の減少等の自然現象が人々の生活に大きな支障をきたす事態も生じていた点を窺うことができます。
この給水活動で使用された給水車は、「厚生課で急造の給水車」[5]前掲注3と同じ。であったとされています。国立市広報担当より当館に移管された写真の中に、この給水車を“急造”している様子を撮影したとみられるものがあります。今見ると、前年の給水車よりもかなり手造り感の強い印象を受けますが、住民のために活動している役場の様子を切り取った1枚となっています[6]『国立文化』第44号〔国立文化編集部 昭和32(1957)年5月20日発行〕P3「給水車出動 百世帯が渇水」では、昭和32年5月の給水活動に関し、給水車の「トラツクの借上料その他二週間の予定で費用がざつと十万円という」と報じています。あるいは給水活動にかかる費用の面からも別途“急造”を必要とする背景があったのではないかとも考えられます。。また、『国立文化』第56号[7]国立文化編集部 昭和33年6月20日発行。の5頁には、同じ給水活動に関して「渇水に給水車巡回」と題した記事を掲載しています。この記事に拠れば、昭和33年6月23日の社会委員会において予算15万円で給水車を出すことが決められたことが知られます。
なお、『国立文化』第43号[8]国立文化編集部 昭和32年4月20日発行。では、「くにたち戯評」として〝異常カツ水″と題した早川薫太郎氏の挿絵が掲載されています。国立駅前の円形公園の水が干上がった底に金魚の泳ぐ金魚鉢が置かれ、大人や子どもたちが眺めているというウイットに富んだ面白い絵で、国立駅舎や円形公園のベンチ・公園機能など、いま現在は見られなくなってしまった景色も描かれています。
早川薫太郎氏(1933―2015 本名・登直)については、当館の本年夏季企画展(会期終了)でも作品展示[9]国立市所蔵美術作品展「わたしたちのたからもの展」(7/1~9/3)において、「沖永良部島の妖精たち」(全50枚)から3作品(いずれも水彩画)を選び、展示いたしました。をしていましたが、国立市谷保ご出身の画家・彫刻家で、版画家としての活動がよく知られているところです[10]早川薫太郎氏に関しては、(公財)たましん地域文化財団の藤森学芸員および当館安齋学芸員より情報提供をいただきました。。『国立文化』第42号[11]国立文化編集室 昭和32年3月20日発行では、当時の早川氏について、「新進の風刺まんが作家としても期待されている若い画家さん」で、「本村名物あほだらまんじゆう店の息子さん」として紹介をしています。
この早川氏の挿絵を含め『国立文化』の記事は、明窓浄机館(国立市中2丁目)で開催中の「戦後復興期の国立の人々と風景」(平成30(2018)年3月23日まで)でご覧いただけます。記事や挿絵、商店の広告などから当時の世相を感じ取ってみるのも楽しいのではないでしょうか。
明窓浄机館HP:http://meisoujoukikan.net/
【中村記】
※脚 注
↑本文へ1 | 当館所蔵写真に表示のある「ファイル番号」とは、営利を目的としない写真の利用に供するため、くにたち郷土文化館に保存されている電子データーのファイル番号を表示したものです(写真集でも当館が電子データーを所蔵しているものは、ファイル番号の表記をしています)。 |
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↑本文へ2 | 当館HP「くにぶんブログ」平成29(2017)年10月10日掲載分 |
↑本文へ3 | 『国立町報』第49号〔昭和33(1958)年9月1日発行〕P3「町民に喜ばれた給水 1日最高700世帯に給水」。 |
↑本文へ4, ↑本文へ5 | 前掲注3と同じ。 |
↑本文へ6 | 『国立文化』第44号〔国立文化編集部 昭和32(1957)年5月20日発行〕P3「給水車出動 百世帯が渇水」では、昭和32年5月の給水活動に関し、給水車の「トラツクの借上料その他二週間の予定で費用がざつと十万円という」と報じています。あるいは給水活動にかかる費用の面からも別途“急造”を必要とする背景があったのではないかとも考えられます。 |
↑本文へ7 | 国立文化編集部 昭和33年6月20日発行。 |
↑本文へ8 | 国立文化編集部 昭和32年4月20日発行。 |
↑本文へ9 | 国立市所蔵美術作品展「わたしたちのたからもの展」(7/1~9/3)において、「沖永良部島の妖精たち」(全50枚)から3作品(いずれも水彩画)を選び、展示いたしました。 |
↑本文へ10 | 早川薫太郎氏に関しては、(公財)たましん地域文化財団の藤森学芸員および当館安齋学芸員より情報提供をいただきました。 |
↑本文へ11 | 国立文化編集室 昭和32年3月20日発行 |