資料1『国立駅前』 大正15(1926)年 くにたち郷土文化館所蔵

 資料1は、当館が所蔵する写真資料です。この度の企画展示のポスターやリーフレット、図録の表紙などでも使っていますので、ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。
 国立駅前が多くの人で賑わっている様子が収められており、奥には国立駅が開業(大正15・1926年4月1日)してまだ間もない頃の駅舎の姿が写し撮られています。 左に目をやると、円形の金網状のものを人々が取り囲んでいます。人々が熱心に見入っているのは、国立駅開業後に駅前広場へと設置された「水禽舎」で、円形のケージの中では水鳥たちが飼育されていました。この「水禽舎」が設けられていたのは、現在の駅前広場の円形公園にある池の部分になります。

2019年11月29日撮影

 東京高等音楽学院(現 国立音楽大学)創設の中心メンバーで、同学院の経営部門を担当した中館耕蔵氏は、以下のように語っています。
「駅を降りて左の方に野外音楽堂〔国立音楽堂:引用者〕をつくり音楽会をやる。お客さんは新宿以降無料バスを出して集めた。音楽会が済むとまだ開通していない駅前に人が集まってきて、そこにあった水禽舎の中の鶴やペリカンを見て回わっている光景を写真に撮って、すぐそれを土地会社〔箱根土地株式会社:引用者〕が宣伝に使うわけです。そういう役をしたんです。」 [1]『広報くにたち』第46号(学校法人 国立音楽大学、1982年11月15日)4面 中館耕蔵「くにたちたんじょう物語」(九)。なお、『私たちの町くにたち 聞きとり資料(1)国立開発~昭和20年』(国立市公民館図書室所蔵)でも、「そこ〔国立音楽堂:引用者〕で合唱会を度々やりました。そのときはいつも会社〔箱根土地株式会社:引用者〕の方で宣伝して、国分寺から新宿までの駅に看板を出したり、無料バスを出して、ほんとに大ぜいきました。それがすんだら皆駅前に集まったのです。鶴やペリカンがいる水きん舎があって、それをみんながとりまいているところを会社が撮ったのがさっきの写真です。」と中館氏は語っています(「さっきの写真」がどの写真かは不明)。

 資料1の写真は、箱根土地株式会社(以下「箱根土地」とします)が国立への来訪を誘った絵葉書(資料2)や箱根土地による分譲案内の掲載写真(資料3)[2]資料3は、一面は『国立分譲地案内』として国立の施設等の写真を多数掲載して分譲地を宣伝し、もう一面を『国立分譲地区画図』としている分譲案内。区画図の面に「大正十五年九月一日現在」と記されています。として使用しており、中館氏が語っているような国立音楽堂での音楽会後の様子を収めた1枚であったのかもしれません[3]中館氏は「開通していない駅前」とされていますが、水禽舎・国立音楽堂とも国立駅開業後に設けられているため、この部分は記憶違いがありそうです。

資料2.絵葉書:『中央線国立駅(国分寺・立川間)』 大正15(1926)年
くにたち郷土文化館所蔵

資料2の宛名面

資料3.『国立分譲地案内』 大正15(1926)年 くにたち郷土文化館所蔵

資料3の掲載写真「或る日の国立駅」


 なお、資料2は掲載されている案内文から大正15年8月頃に作成された絵葉書とみられ、資料3の分譲案内には「大正十五年九月一日現在」と作成時期を窺わせる記載がなされています。
 国立音楽堂では大正15年7月に新築披露の大演奏会が催されていますから、資料1が中館氏が述べている国立音楽堂での音楽会後に撮影された写真ならば、その撮影時期は、国立音楽堂で演奏会が開かれるようになった大正15年の7月以降、絵葉書や分譲案内が作成されたであろう8月までの間に撮影された1枚ではないかと考えられるところです。

【さらに資料を深掘りしてみましょう】
 資料2について、「掲載されている案内文から大正15年8月頃に作成された絵葉書」と紹介しましたが、この作成年代をどうやって導いたのか少し掘り下げてみましょう。
 資料2の宛名側に記されている案内文を見てみましょう。

 「国立は水道道路下水完備し小学校もあり近く中学校女学校も設けられます」
 この文にある「小学校」とは、国立大学町分譲に際して設けられた国立学園小学校のこととみられますが、同校は大正15年4月19日に開校式が行われています。「小学校もあり」と紹介していることから、既に開校していることが窺われます。ここからはまず大正15年4月以降において作成された絵葉書であると考えることができます。

 「国立は東京商大〔現 一橋大学:引用者〕が近く移転します有名な兼松大講堂は目下盛に工事中です」
 この文にある「兼松大講堂」は、大正15年8月6日に起工[4] 依光良馨『大学昇格と籠城事件』(社団法人 如水会、1989年3月31日)282頁。しています。東京商科大学の大学新聞『一橋新聞』第40号(大正15年10月1日)でも、「去8月8日からいよいよ工事に着手した。」[5] 『一橋新聞』第40号(大正15年10月1日)2面「兼松大講堂の基礎工事始る 竹中組が建築技術の粋を尽して明年八月までに竣工を急ぐ」の記事の中で、「兼松大講堂は、東洋建築の泰斗伊東忠太博士の設計に基き三十三万円の請負で竹中組が去八月八日からいよいよ工事に着手した。」と記されています。と報じられています。兼松講堂が工事中であることが述べられている点から、大正15年8月以降において作成された絵葉書と考えられます。

 「国立は東京高等音楽学院が九月から開校されます時々演奏会が開かれます」
 この文では、東京高等音楽学院の9月開校を述べていますが、「九月から開校」としている点から9月前における記述と考えられます。なお、東京高等音楽学院は、箱根土地が所有する遊園地「新宿園」(現在の新宿区新宿5丁目の一部に在りました)の仮校舎で大正15年4月に既に開校しています。その後、箱根土地からの早期移転の要望に応じて、同年の2学期から国立へと移転してきます。この案内文で述べている9月の開校とは、同校の国立への移転を指しているものと考えられます。

掲載されている「汽車時刻表(改正)」の発着時間
 鉄道博物館が所蔵する鉄道省運輸局編纂の『汽車時間表附汽船自動車発著表』の記載内容と比較したところ、この絵葉書所載の時刻表にある汽車の発着時間は、大正15年8月号および同年9月号に記載されているものと同じ時間であることが分かりました。

 これらの点から判断して、この絵葉書は「大正15年8月頃に作成されたもの」と考えられます。

 いかがだったでしょうか?ちょっとマニアック過ぎましたでしょうか?
 箱根土地の分譲案内や絵葉書、チラシなどには様々な案内文が掲載されていて、読んでみると面白い内容がいろいろと含まれています。今回は絵葉書の作成された年代をどのように定めたのか、その過程を紹介してみました。ご興味のある方は、分譲案内などの案内文もぜひ目を通してみてください。ただし、資料の文字は結構小さいので、読みづらい点はご容赦いただきたいのですが…。

【2020.04.08:中村記】

※脚 注   [ + ]

1. 『広報くにたち』第46号(学校法人 国立音楽大学、1982年11月15日)4面 中館耕蔵「くにたちたんじょう物語」(九)。なお、『私たちの町くにたち 聞きとり資料(1)国立開発~昭和20年』(国立市公民館図書室所蔵)でも、「そこ〔国立音楽堂:引用者〕で合唱会を度々やりました。そのときはいつも会社〔箱根土地株式会社:引用者〕の方で宣伝して、国分寺から新宿までの駅に看板を出したり、無料バスを出して、ほんとに大ぜいきました。それがすんだら皆駅前に集まったのです。鶴やペリカンがいる水きん舎があって、それをみんながとりまいているところを会社が撮ったのがさっきの写真です。」と中館氏は語っています(「さっきの写真」がどの写真かは不明)。
2. 資料3は、一面は『国立分譲地案内』として国立の施設等の写真を多数掲載して分譲地を宣伝し、もう一面を『国立分譲地区画図』としている分譲案内。区画図の面に「大正十五年九月一日現在」と記されています。
3. 中館氏は「開通していない駅前」とされていますが、水禽舎・国立音楽堂とも国立駅開業後に設けられているため、この部分は記憶違いがありそうです。
4. 依光良馨『大学昇格と籠城事件』(社団法人 如水会、1989年3月31日)282頁。
5. 『一橋新聞』第40号(大正15年10月1日)2面「兼松大講堂の基礎工事始る 竹中組が建築技術の粋を尽して明年八月までに竣工を急ぐ」の記事の中で、「兼松大講堂は、東洋建築の泰斗伊東忠太博士の設計に基き三十三万円の請負で竹中組が去八月八日からいよいよ工事に着手した。」と記されています。