はじめに
1.新聞記事資料の追加
2.紹介資料の訂正
3.東京商科大学の移転記念祭における歓迎飛行について
4.その他の追加情報
おわりに
はじめに
先日、東京都立国立高等学校の新聞部が、「大学通りと滑走路」と題した記事を学内新聞である『国高新聞』に取りあげてくれました[1]くにたち郷土文化館HP(2019年6月17日掲載):https://kuzaidan.or.jp/province/kuni-bun/20190617/。
その素晴らしい記事の出来映えはもちろんですが、通学している地域へと目を向け、その情報を学友へと発信していくという点にとても共感を覚えました。
若い世代がこのように地域へと目を向けてくれたことに勇気づけられ、また発奮もして、当館HPで先にご紹介しておりました『大学通りと飛行機』[2]くにたち郷土文化館HP(2018年4月23日掲載):https://kuzaidan.or.jp/province/curator-info/20180423/ について、追加の資料紹介をさせていただこうと考えるに至りました。
先のご紹介から1年以上が経過しておりますので、新たに追加資料を紹介するとなれば、何か進展があったと思われる方もいらっしゃるやもしれません。
しかし、不精・不真面目・飽きっぽいという生来の三堕なこの性格は、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、当館へ奉職してたかだか3年少々で直るはずもなく、この度も驚くような成果が報告できるまでには至っておりません。その点何卒ご理解のうえ、先に読み進めていただけますと報告者としても心安らかであります。
そのような拙い報告でも、何か手がかりへと繋がる情報が舞い込むキッカケになるかもしれない。またもやそんな他力本願でヨコシマな思いも含めて以下の追加報告とさせていただきます。
1.新聞記事資料の追加
先に『大学通りと飛行機』で紹介しました、東京・軽井沢間の航空便を報じた当時の新聞記事について、当館のTwitterへ「コナンの父」(アカウント名)様から情報をご提供いただきました(2018年10月12日付)。
その中に私が見過ごしていた新聞記事の情報が含まれておりましたので、以下に追加資料としてご紹介させていただきます。情報をお寄せいただき誠にありがとうございました。
資料1
追加資料:『東京日日新聞』府下版 昭和2(1927)年8月18日、8面、「旅客輸送飛行 第二回決行 けふ正式に旅客を乗せて」
「航空法改正後第一番の試みとして飛行機の実用化に成功した箱根土地会社航空部の立川軽井沢間定期旅客輸送は十八日第二回を決行今度は正式に旅客を同乗せしめ立川日本飛行学校教官小川一等飛行士操縦の下に早朝立川を出発し国立大栄〔「学」の誤字〕町の廿四間道路に著陸同所箱根土地航空部から軽井沢千ヶ瀧の経営地へ送る物資、通信物等を搭載の上一気軽井沢へ飛ぶ筈で操縦困難な道路を離著陸場とする右飛行はわが国はじめての事とありまたしても航空界の興味をそゝつてゐる。」[3]本文中で引用している新聞記事については、旧字体から新字体字への変更、ルビや文字上の飾りの省略など引用者が断りなく原文に変更を加えたところがあります(文中の〔〕内は引用者による注記。以下本文中の新聞記事以外の引用文においても同じ)。
『東京日日新聞』府下版には、この記事の前日にも同じ内容を報じた記事が掲載されていますが(先の紹介時に「資料3」とした記事[4]『東京日日新聞』府下版(昭和2年8月17日)8面「鮮魚を積んで一気に飛ぶ 立川軽井沢輸送飛行 きのふ予想外の成功」)、①第2回目の飛行では「正式に旅客を同乗」させる点、②飛行機の操縦は「立川日本飛行学校教官小川一等飛行士」が行う点、③立川より出発した飛行機が「国立大栄〔学〕町の廿四間道路に著陸」し、「操縦困難な道路を離著陸場とする」点、④国立では「同所箱根土地航空部から軽井沢千ヶ瀧の経営地へ送る物資、通信物等を搭載」する点など、前日の記事よりもより詳細な内容を報じている点が注目されます。
この第2回目の航空便の実施を報じた記事は、同紙の翌19日に掲載されています(先の紹介時に「資料4」とした記事 [5]『東京日日新聞』府下版(昭和2年8月19日)8面「第一回に確信を得て 軽やかに飛ぶ=立川軽井沢間飛行 非常に愉快と小川氏語る」)。この記事に拠れば、前記の①と②については実施されたことが知られるものの(「ジヤパンタイムス社の堀口氏同乗」、「日本飛行学校教官小川寛爾氏が十年式機三百馬力を操縦」)、③と④については全く触れられていません。特に③については前日の記事で、「操縦困難な道路を離著陸場とする右飛行はわが国はじめての事」とまで述べていたのですから、実際に大学通りへと飛行機が離着陸したのであれば、実施を報じた記事にはその点を記してしかるべきと考えます。それが何も報じられていないということは、何らかの事情によって大学通りへの離着陸は出来なかった可能性を推察させるところです。
2.紹介資料の訂正
先の『大学通りと飛行機』の「おわりに」で、「写真4」として紹介した「飛行機上にて 堤康次郎」の館蔵資料については、その註記内(註38)で「大正14〔1925〕年11月9日に行われた東京商科大学工事進捗に伴う園遊会や、大正15(1926)年に催された同大学卒業生を招待した国立視察といったイベントにおいて、飛行機から捲〔「撒」の誤記〕いたものと考えられます」としていましたが、これは大正15(1926)年6月6日に開催された東京商科大学の国立の運動場落成式において、飛行機より撒かれたビラであると判明しました。ここで訂正させていただきます[6]この点については『国立市史 下巻』(国立市、平成2年5月25日)113頁で、「大正十五年六月六日の商大のグランド開きに飛行機から式場にまいたビラ」との指摘が既になされていました。。
『一橋新聞』第35号(大正15年6月15日)1面には、運動場落成式における祝詞が掲載されていますが、その中にはこの館蔵資料とほぼ同文のものを認めることができます。また、その落成式の様子を報じた記事[7]『一橋新聞』第35号(大正15年6月15日)2面「新一橋建設の魁 運動場先づ成る 雨に祟られても賑やかだつたグランド開き」には、「一同が到着して間もなく箱根土地会社の堤社長の祝文を積んだ飛行機が場の上低く飛んで来て盛んにビラをまいた」とあり、館蔵資料が同落成式で撒かれたビラであったことを知ることができます。
この運動場落成式は、「大学町で行ふ最初の学生達の催し」[8]『一橋新聞』第33号(大正15年5月1日)2面「新緑の野、国立で催される大懇親会 先輩と学生とクローバに座して 五月晴れの新グラウンドに」であったようで、「先輩学生打ち交つて一大懇親会を催す計画」として一橋会理事会において準備が進められたものでありました[9]『一橋新聞』第34号(大正15年5月15日)2面「橋人交驩の支度 国立の野に整ふ この卅日には先輩も集うてピクニツク兼ねて運動場開き 待たるゝ催しの数々」。撒かれたビラの中で「財界に重きを為し又将に為さんとする皆様」とあるのは、卒業生と学生が共に参加する会であることを踏まえての言とみられます。
またこの卒業生と学生(「財界に重きを為し又将に為さんとする皆様」)に向かって、「深厚なる御同情を希ひ上げます」としている部分については、『一橋新聞』第42号(大正15年11月1日)3面に掲載された「国立土地分譲に付き 校友諸賢に謹告す」と題した箱根土地株式会社(以下「箱根土地」)の広告文にも同趣の表現を見ることができます[10]広告文中では、「国立の建設は、実に本社過去十年の資本と経験との、総合的基礎の上に立つたる諸賢御同情の結晶体であります。」、「(前略)何しろ百萬坪の土地経営ですから莫大な資金が固定致します本社の事業としては荷が勝ち過ぎて居りますが、校友諸賢の深厚なる御同情と侠的御援助とにより我等に不断の勇気と鞭撻とを与へられて居ります。」といった表現がみられます。また「我等〔箱根土地〕は一橋に親しまるゝ校友諸賢が等しく国立にも親まれ、之が完成に努力しつゝある我等に更に一臂の御援助御鞭撻を賜り度、切に懇願して止みませぬ。」というところには箱根土地の直接的な営業文句が窺われます。。この表現には、大学関係者が国立の分譲地の買い手となってくれることを期待した箱根土地の思惑がにじみ出ているようにも感じられるのですがいかがでしょうか。
なお、この落成式は当初、5月30日の日曜日に開催される予定でしたが、当日が雨天となったため延期日に設定されていた翌週の日曜日(6月6日)に開催されました。この6日も朝方に雨が降ったようで、事前に仕立てられていた新宿駅からの臨時列車[11]前掲註9の記事では、「午前九時頃新宿駅から臨時列車を仕立てゝ先輩学生二千余人一団となつて広ばくたる新開の国立の野に押だす」と延期前の乗車人数の想定などが報じられています。への乗車数は少なかった模様ですが、それでも「次第に参会者の数もふえて三百名余り」と盛況のうちに各種運動競技や余興が執り行われ、「かくて先輩教授学生付近の村人共々に和気あいあいとして十分の歓をつくし」たと報じられています[12]前掲註7と同じ。。
3.東京商科大学の移転記念祭における歓迎飛行について
先日、国立市公民館図書館の地域資料を調べていて次のような資料と“出会い”ました。
「十日午前九時から市外国立の商科大学では移転記念完成祝賀会、功労者矢野二郎氏の銅像除幕式が行はれるが、同時に運動会、仮装行列、学生劇、民謡、尖端ダンス等が催され、来賓としては渋沢栄一子田中文相はじめ諸名士が臨席する同校卒業生で組織されてゐる如水会の諸名士も殆ど全部出席して夜の更けるまで未曾有の記念祭がつゞけられることになつてゐるが、この催し中の呼びもの飛行機による福引券撒布には、例の北村兼子さんが機上から愛嬌たつぷりにその尖端ふりを発揮する筈になつてゐる【写真は北村兼子さん】」
資料4の記事は、国立市公民館図書室が所蔵する『箱根土地K・K 大正15年~昭和9年』と題された新聞のスクラップ帳(新聞記事等のコピーがスクラップされているもの)の中に含まれているものです。記事の上部に「6.5.9」と書き込まれている点からして、「昭和6(1931)年5月9日」の記事ではないかと考えられますが、残念ながらどの新聞に掲載されたものなのかは判然としません。
この記事にある5月10日の「移転記念完成祝賀会、功労者矢野二郎氏の銅像除幕式」とは、先の『大学通りと飛行機』でも紹介した昭和6(1931)年5月10・11日に催された東京商科大学における移転記念祭(矢野校長銅像除幕式も開催)に該当します。既にご紹介のとおり、この記念祭では「飛行機を用ひて尖端的な催し」[13]『一橋新聞』第130号(昭和6年3月27日)5面「飛行機を用ひて尖端的な催し 一橋会の役員 珍案に一苦心 紀〔ママ〕念祭の準備進む」が企図されており、一橋会役員の会合では3月の準備段階で既に飛行機による福引券の配布という案がでていました。記念祭当日には「歓迎飛行」[14]『一橋新聞』第134号(昭和6年5月27日)3面「記念祭第一日目 故矢野校長銅像除幕式と本学移転記念祭 財界、政界の名士に埋つた国立」に掲載の写真とその説明。なお、後掲註15にある実況映画とみられる映像の中では、飛行機の飛行シーンに「祝賀飛行」とタイトルをつけて紹介しています。として飛行機が飛来していることが分かっていますが、この記念祭第1日目の様子を記録したとみられる映像[15]5月11日の移転記念祭2日目夜、同記念祭第1日目の様子を実況映画として公開していますが、この映画に該当する映像と考えられます(『一橋新聞』第134号(昭和6年5月27日)3面「前日の賑ひを目前に再現 国立の実況映画公開 映画の夕べ大好評」)。を改めて確認したところ、飛来した飛行機が上空からビラのようなものを散布している様子が映されていることが分かりました。資料4の記事が報じているように、北村兼子氏が飛行機から実際に散布したのかは定かでありませんが、彼女はこの記念祭に招かれていたようで、午後に催された運動会で「ダルマ叩き」に参加している写真が一橋新聞に掲載されています[16]前掲註14の『一橋新聞』の記事には、「ダルマ叩きに興ずる北林〔村の誤記とみられる〕兼子氏」と説明のある写真が掲載されています。なお、前掲註15の映像にはダルマ叩きの様子も撮影されていますが、北村兼子氏とみられる人物を見い出すことはできませんでした。。
一橋新聞に掲載されている移転記念祭および矢野校長銅像除幕式の式次第には「歓迎飛行」がどの時点で行われたのか示されていませんが、福引券を散布したという点から推察すると、午後に催された一橋会による祝賀運動会に合わせて飛来したとも考えられます[17]前掲註15の映像で「祝賀飛行」と題された飛行機の飛行シーンは、矢野校長銅像除幕式の一部として収録されているため、11時から開催された除幕式において飛来していた可能性もあります。。
なお、この移転記念祭に際し、当時の国立大学町の町内会に相当した国立会[18]国立市公民館図書館所蔵の「国立会誕生から消滅(国立会事務所)まで」(『国立会関係』ファイル内)に拠れば、会の名称は、昭和11(1936)年の規約改正で「国立町会」から「国立会」へと改めたとされています。しかし、それ以前においても「国立会」の名称を用いた資料や写真が現存しており、今回は資料6の写真にある「国立会」の名称を用いました。が、駅前に「大アーチ」を設置していたことが一橋新聞に報じられています[19]『一橋新聞』第133号(昭和6年5月9日)5面「国立会の祝賀」で、「国立会の名で駅前に大アーチを設けて祝賀準備をとゝのへてゐる」と記されています。。前述の記録映像では、この「大アーチ」についても撮影されていますが、その映像と同じアーチが写されている写真が現存しています。この「大アーチ」は駅前広場から大学通りへと入る辺りに設けられていたようですが、東京商科大学が移転してくることでまちが賑わい、国立大学町の発展につながると考えられていた当時、住民たちの歓迎ぶりが窺われるものです。
さて、資料4の記事で「例の北村兼子さん」と紹介されている北村兼子氏とはいかなる人物だったのでしょうか。記事にある写真の着装からは女性飛行士のように見えますが、彼女は、昭和5(1930)年12月に立川の日本飛行学校へ入学し、飛行士を目指して訓練に励んでいた女性で、移転記念祭が開催された時には単独飛行が可能となるまでに至っていました[20]大谷渡『北村兼子 炎のジャーナリスト おおさか人物評伝②』(東方出版、1999年12月20日)255頁。昭和6(1931)年4月に単独飛行が可能となり、同7月6日には飛行士の免許を得ています。なお、北村兼子氏に関しては同書および同氏による「北村兼子小伝」(『歴史と神戸』第31巻第6号(神戸史学会、平成4年12月1日)所収)を主に参照させていただきました。。
彼女が飛行士に挑戦したことは当時話題の出来事であったとみられ、東京日日新聞の府下版で確認できただけでも、彼女の飛行練習等を報じた記事が、昭和6(1931)年1月29日、同年3月17日・29日に掲載されています。
「【右上】飛行機練習中の北村兼子さん 立川の日本飛行学校で飛行練習をやつてゐる北村兼子さん、世間の冷眼視を尻目にかけ毎日朝霜を踏んで登校、秩父風にさらされながら熱心な勉強振り、廿八日北村さんはその後の感想として『わたし身体が小さいので随分骨が折れるわ、操縦棹を握つて力を一パイ出しても自由にならないのです。然し一度切札を出してしまつたので今更引込みがつかないのでそれこそ生れて初めて身を入れて努力してゐますの』と飽くまでやり貫く意気を示したが、矢張飛行機練習は憂いもの辛いものであるらしかつた」
「立川日本飛行学校で操縦術を勉強中の北村兼子さんは十四日までに早くも十一時間十三分の飛行時間を算する様になり単独操縦の資格を得たのでいよいよ今月末単独の試験を受け一人前の操縦士として巣立つ当初余り問題にされなかつた同女史の飛行家志願も熱心な努力で晴れの外国訪問飛行計画期も近づいて来たので一層丹精こめてゐる」
「立川町日本飛行学校の北村兼子女史は四日単独飛行試験を受けるが女史の訪欧飛行の後援者である実業家福澤桃介氏は廿八日立川町の日本航空輸送会社を訪問伏見教官に面談した」
北村兼子氏は、大阪で学者(漢学者)の家系に生まれ、官立大阪外国語学校(現 大阪外国語大学)別科英文科に入学、また関西大学大学部法律学科に聴講生として入学が許可され、関西大学で「最初の女子学生として登場」[21]関西大学百年史編纂委員会編『関西大学百年史 人物編』(学校法人関西大学、昭和61年11月4日)391頁しています。その在学中に彼女の才能に着目した大阪朝日新聞社へ在学のまま記者として採用され、同社の花形記者として活躍しつつ文筆活動を続けていきます。同社から退職した後はフリーのライターとして活動し、昭和3(1928)年8月にホノルルで開催された汎太平洋婦人会議に日本代表の一員として出席。昭和4(1929)年6月にベルリンで開催された第11回万国婦人参政権大会にも日本代表として出席しています。「女性の立法権獲得こそが最重要課題であると主張し、女性に対するあらゆる差別制度を根底から覆すべきことを強烈に訴えて言論界に登場した」[22]前掲註20の書籍246頁北村兼子氏は、当時において時代の先端を走っていた人物のひとりであったことでしょう。東京商科大学の移転記念祭で「飛行機を用ひて尖端的な催し」[23]前掲註13に同じ。が企図された中、立川の日本飛行学校に在席していた彼女へとその催しの依頼がなされ、またその記念祭に招かれていたのは、彼女の「尖端」性に注目されたが故とみられます。
なお、北村兼子氏はこの記念祭の行なわれた約2ヶ月後の7月13日に盲腸炎にかかって入院しますが、その術後において腹膜炎を併発、7月26日に27歳の若さで亡くなっています。8月14日に訪欧飛行を決行する目前での急逝でした[24]北村兼子氏の遺著となった『大空に飛ぶ』(改善社、昭和6年10月15日)の「故北村兼子略歴及遺著解題」において、父の北村佳逸氏は「八月十四日に訪欧飛行を決行することになり三菱航空機会社に嘱して飛行機を作り飛行予定日の前に十九日を残して逝きました」と記しており、訪欧飛行のための飛行機の準備も進んでいた最中でのあまりにも突然の出来事であったことが知られます。。
彼女に関する著作がある大谷渡氏は、「『大阪朝日新聞』社会部記者を振り出しに、二〇歳代の数年間にこれほど活躍し異彩を放った北村兼子が、実は今日ほとんど知られていない」[25]前掲註20の論考11頁と述べられていたことがあります。私も国立市公民館図書室で、前掲の新聞記事と出会ったときは、まだ「北村兼子」がどのような人物なのか全く分からない状態でした。そこから彼女に関する書籍や論考、あるいは彼女自身の文章を読んでいくうち、彼女の「シャープな切り口にユーモアを交えた明解な文体」[26]前掲註25と同じ。やその芯の通った主張に強く惹かれていきました。ひとつの資料との“出会い”から北村兼子という人物を知り、彼女の言動を通じて当時の世相をよりリアルに窺い知ることもできました。このような情報の連鎖的な広がりというものも、資料を調査していくうえでの楽しさのひとつでもあります。
先の『大学通りと飛行機』に関する追加情報としては横道に外れてしまったかもしれません。しかし、ほんの一時ではあるにしても国立と関わりを持った北村兼子氏を紹介することで、彼女を通じて当時の状況や世相を知る契機となる方が他にもいらっしゃるのではないか、そんな想いから紹介させていただきました。
4.その他の追加情報
先の『大学通りと飛行機』の冒頭で紹介した昭和9(1934)年の新聞記事(資料4と同じスクラップ帳に含まれているもの)については、掲載新聞名とその日付が不明でありました。最近偶然にもこの記事の掲載紙を確認し、『東京日日新聞』府下版の昭和9(1934)年2月25日の12面に掲載された「街のたより」の一部であることが分かりました。ここにその記事を掲載して、訂正させていただきます。
なお、同紙では昭和8(1933)年3月29日の記事[27]『東京日日新聞』府下版(昭和8年3月29日)12面「世界の粋をあつめた「近代都市」の嘆き 国立町のさびしさに対策」にも、「国立の総面積約百萬坪中央に放射状の卅間道路(飛行機が離著陸出来る)を初め整然たる道路下水の基礎を有し」(下線引用者)といった記述が認められます。昭和初期において、大学通りに飛行機が関連づけられて語られていた当時の様子を窺うことができて興味深いところです。
また、先の『大学通りと飛行機』の「大学通りは滑走路として利用できるのか」において、関頑亭氏が大学通り南端の「谷保の高圧線」の存在によって大学通りへと飛行機が離着陸することができず、「一度も大学通りが飛行機の滑走路に使われた事は無い」[28]『平兵衛新田 むかし・現在“別巻”』(国立駅北口 光商栄会、2011年11月3日)183頁と述べられていることを紹介しました。
頑亭氏のお兄様である、関栄一氏(国立の商店の草分け「せきや」二代目)へ2004年に取材した記録の中で、「〔大学通りに〕1度だけ飛行機が降りようとしたことがありました。これは私も見ていましたが、南の方面から着陸態勢をとっていた飛行機は、現在の立体歩道橋の付近に高圧線が1本通っていたために着陸出来ませんでした。」[29]「チャーターメンバー 関 栄一会員 国立の昔を語る」(『創立四十周年記念誌』東京国立ロータリークラブ、平成22年1月1日)30頁と頑亭氏と同じ内容を語られていることが分かりました。
前回も述べましたが、大学通りへの飛行機の離着陸を調査していくにあたっては、このような記録がある点を常に頭に留め置いた上で進めていく必要があると考えています。
また、近藤將氏は、同氏が編集委員長をされた『平兵衛新田 むかし・現在“別巻”』の「大学通りの「滑走路伝説」について」[30]前掲註28の書籍182~186頁の内容などを最近改めてご紹介され、「大学通りが定期航空の滑走路としては使用されなかった、と考えますが如何なものでしょうか?」と問われています[31]「大学通り(国立)謎の「滑走路伝説」を追う」(『みにこみ国分寺』№49 国分寺市商店会連合会、平成31年3月30日)6・7頁。
箱根土地が昭和2(1927)年に行なった東京(立川)・軽井沢間の航空便は、現在2回の試験的航行しか確認できておらず、その後定期的に行なわれたという確たる資料も見い出せていません。また、この2回の航行に際して箱根土地が国立(大学通り)へと飛行機を離着陸させようとしていた形跡は窺えますが、それが実現されたという確証を得ることはできていません。聞き取り資料には大学通りへの定期的な飛行機の離着陸を窺わせる記録[32]『私たちの町くにたち』聞き取り資料(1)国立開発~昭和20年(国立町、国立市公民館図書室所蔵)「佐伯さん(元箱根土地社員)の話 1976.1.14」(先の『大学通りと飛行機』の「東京・軽井沢間の航空便:昭和2年8月」において引用しています。)が確認されますが、現状においては、定期便の滑走路として大学通りが使用されたとするのは躊躇せざるを得ません。大学通りに飛行機が離着陸したことがあるとすれば、箱根土地による実験的・イベント的な飛来によるものではないかと個人的に考えているところです。
おわりに
資料11の「街のたより」の記事で「N技師」とされている中島陟氏(箱根土地の常務取締役などを歴任)は、昭和25(1950)年4月2日に開催された「国立駅開設二十五年記念回顧座談会」において、「本社〔箱根土地〕では飛行機による軽井沢、伊東辺りとの定期便も計画していましたが却て攻撃されました」と述べられています[33]『国立文化』第9号(昭和25年4月23日)3面「国立25年回顧特輯」。箱根土地による定期航空便事業の構想について、何かしらの障害があったものと察せられるのですが、どこから、どのような「攻撃」があったのか詳細までは分かりません。同社の航空事業については、会社側の資料が殆ど検出できていないのが現状です。この中島氏による証言のような記録を丹念に拾い集めていくことが、何かしら手がかりに繋がっていくのかもしれません。そのような期待も抱きつつ、今後も調査を続けていきたいと考えています。
前回もお願いしておりましたが、改めて厚かましいお願いです。
大学通りへと飛行機が離着陸した、あるいはしなかったことについて何かしら情報をお持ちの方、あるいはお持ちの方をご存知の方は、是非とも当館までお知らせください。小さな情報でも積み重ねていくことによって、面白い発見へと繋がっていくはずです。私の貧弱な能力と脆弱な気力では、なかなか調査の進展も望み得ません。皆さまのご協力をお願いする次第です。何卒よろしくお願いいたします。
※脚 注
↑本文へ1 | くにたち郷土文化館HP(2019年6月17日掲載):https://kuzaidan.or.jp/province/kuni-bun/20190617/ |
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↑本文へ2 | くにたち郷土文化館HP(2018年4月23日掲載):https://kuzaidan.or.jp/province/curator-info/20180423/ |
↑本文へ3 | 本文中で引用している新聞記事については、旧字体から新字体字への変更、ルビや文字上の飾りの省略など引用者が断りなく原文に変更を加えたところがあります(文中の〔〕内は引用者による注記。以下本文中の新聞記事以外の引用文においても同じ)。 |
↑本文へ4 | 『東京日日新聞』府下版(昭和2年8月17日)8面「鮮魚を積んで一気に飛ぶ 立川軽井沢輸送飛行 きのふ予想外の成功」 |
↑本文へ5 | 『東京日日新聞』府下版(昭和2年8月19日)8面「第一回に確信を得て 軽やかに飛ぶ=立川軽井沢間飛行 非常に愉快と小川氏語る」 |
↑本文へ6 | この点については『国立市史 下巻』(国立市、平成2年5月25日)113頁で、「大正十五年六月六日の商大のグランド開きに飛行機から式場にまいたビラ」との指摘が既になされていました。 |
↑本文へ7 | 『一橋新聞』第35号(大正15年6月15日)2面「新一橋建設の魁 運動場先づ成る 雨に祟られても賑やかだつたグランド開き」 |
↑本文へ8 | 『一橋新聞』第33号(大正15年5月1日)2面「新緑の野、国立で催される大懇親会 先輩と学生とクローバに座して 五月晴れの新グラウンドに」 |
↑本文へ9 | 『一橋新聞』第34号(大正15年5月15日)2面「橋人交驩の支度 国立の野に整ふ この卅日には先輩も集うてピクニツク兼ねて運動場開き 待たるゝ催しの数々」 |
↑本文へ10 | 広告文中では、「国立の建設は、実に本社過去十年の資本と経験との、総合的基礎の上に立つたる諸賢御同情の結晶体であります。」、「(前略)何しろ百萬坪の土地経営ですから莫大な資金が固定致します本社の事業としては荷が勝ち過ぎて居りますが、校友諸賢の深厚なる御同情と侠的御援助とにより我等に不断の勇気と鞭撻とを与へられて居ります。」といった表現がみられます。また「我等〔箱根土地〕は一橋に親しまるゝ校友諸賢が等しく国立にも親まれ、之が完成に努力しつゝある我等に更に一臂の御援助御鞭撻を賜り度、切に懇願して止みませぬ。」というところには箱根土地の直接的な営業文句が窺われます。 |
↑本文へ11 | 前掲註9の記事では、「午前九時頃新宿駅から臨時列車を仕立てゝ先輩学生二千余人一団となつて広ばくたる新開の国立の野に押だす」と延期前の乗車人数の想定などが報じられています。 |
↑本文へ12 | 前掲註7と同じ。 |
↑本文へ13 | 『一橋新聞』第130号(昭和6年3月27日)5面「飛行機を用ひて尖端的な催し 一橋会の役員 珍案に一苦心 紀〔ママ〕念祭の準備進む」 |
↑本文へ14 | 『一橋新聞』第134号(昭和6年5月27日)3面「記念祭第一日目 故矢野校長銅像除幕式と本学移転記念祭 財界、政界の名士に埋つた国立」に掲載の写真とその説明。なお、後掲註15にある実況映画とみられる映像の中では、飛行機の飛行シーンに「祝賀飛行」とタイトルをつけて紹介しています。 |
↑本文へ15 | 5月11日の移転記念祭2日目夜、同記念祭第1日目の様子を実況映画として公開していますが、この映画に該当する映像と考えられます(『一橋新聞』第134号(昭和6年5月27日)3面「前日の賑ひを目前に再現 国立の実況映画公開 映画の夕べ大好評」)。 |
↑本文へ16 | 前掲註14の『一橋新聞』の記事には、「ダルマ叩きに興ずる北林〔村の誤記とみられる〕兼子氏」と説明のある写真が掲載されています。なお、前掲註15の映像にはダルマ叩きの様子も撮影されていますが、北村兼子氏とみられる人物を見い出すことはできませんでした。 |
↑本文へ17 | 前掲註15の映像で「祝賀飛行」と題された飛行機の飛行シーンは、矢野校長銅像除幕式の一部として収録されているため、11時から開催された除幕式において飛来していた可能性もあります。 |
↑本文へ18 | 国立市公民館図書館所蔵の「国立会誕生から消滅(国立会事務所)まで」(『国立会関係』ファイル内)に拠れば、会の名称は、昭和11(1936)年の規約改正で「国立町会」から「国立会」へと改めたとされています。しかし、それ以前においても「国立会」の名称を用いた資料や写真が現存しており、今回は資料6の写真にある「国立会」の名称を用いました。 |
↑本文へ19 | 『一橋新聞』第133号(昭和6年5月9日)5面「国立会の祝賀」で、「国立会の名で駅前に大アーチを設けて祝賀準備をとゝのへてゐる」と記されています。 |
↑本文へ20 | 大谷渡『北村兼子 炎のジャーナリスト おおさか人物評伝②』(東方出版、1999年12月20日)255頁。昭和6(1931)年4月に単独飛行が可能となり、同7月6日には飛行士の免許を得ています。なお、北村兼子氏に関しては同書および同氏による「北村兼子小伝」(『歴史と神戸』第31巻第6号(神戸史学会、平成4年12月1日)所収)を主に参照させていただきました。 |
↑本文へ21 | 関西大学百年史編纂委員会編『関西大学百年史 人物編』(学校法人関西大学、昭和61年11月4日)391頁 |
↑本文へ22 | 前掲註20の書籍246頁 |
↑本文へ23 | 前掲註13に同じ。 |
↑本文へ24 | 北村兼子氏の遺著となった『大空に飛ぶ』(改善社、昭和6年10月15日)の「故北村兼子略歴及遺著解題」において、父の北村佳逸氏は「八月十四日に訪欧飛行を決行することになり三菱航空機会社に嘱して飛行機を作り飛行予定日の前に十九日を残して逝きました」と記しており、訪欧飛行のための飛行機の準備も進んでいた最中でのあまりにも突然の出来事であったことが知られます。 |
↑本文へ25 | 前掲註20の論考11頁 |
↑本文へ26 | 前掲註25と同じ。 |
↑本文へ27 | 『東京日日新聞』府下版(昭和8年3月29日)12面「世界の粋をあつめた「近代都市」の嘆き 国立町のさびしさに対策」 |
↑本文へ28 | 『平兵衛新田 むかし・現在“別巻”』(国立駅北口 光商栄会、2011年11月3日)183頁 |
↑本文へ29 | 「チャーターメンバー 関 栄一会員 国立の昔を語る」(『創立四十周年記念誌』東京国立ロータリークラブ、平成22年1月1日)30頁 |
↑本文へ30 | 前掲註28の書籍182~186頁 |
↑本文へ31 | 「大学通り(国立)謎の「滑走路伝説」を追う」(『みにこみ国分寺』№49 国分寺市商店会連合会、平成31年3月30日)6・7頁 |
↑本文へ32 | 『私たちの町くにたち』聞き取り資料(1)国立開発~昭和20年(国立町、国立市公民館図書室所蔵)「佐伯さん(元箱根土地社員)の話 1976.1.14」(先の『大学通りと飛行機』の「東京・軽井沢間の航空便:昭和2年8月」において引用しています。) |
↑本文へ33 | 『国立文化』第9号(昭和25年4月23日)3面「国立25年回顧特輯」 |