国立市広報移管写真とは?
当館では、国立市広報から移管された写真資料を収蔵しています。これは、「国立町」であった昭和30年代から、デジタルカメラでの撮影に切り替わる前の2002(平成14)年度まで、その間に国立町および国立市の広報が撮りためた35㎜ネガフィルムを中心とした資料群です。広報紙に掲載されている写真であっても、既に散逸してしまって確認できないものが多くあるのは残念ですが、それでも地域を知る上で貴重な資料であることに変わりありません。
当館では、広報移管写真を利用した企画展示を何度も開催してきており、市制施行50周年記念として2017(平成29)年に刊行した写真集『くにたち あの日、あの頃』では、計257枚に及ぶ広報移管写真を掲載し、公開してきています。
広報移管写真のデジタル化は、少量ではありますが毎年度継続して進めており、2024年度までに45,212コマ分が完了し、館内のデータベースに登録されています。外部からの所蔵資料の使用申請でも、デジタル化された写真資料の使用頻度は高く、広報紙や地域の情報誌、自治会や学校での行事等で利用されてきています。
当館が所蔵する国立市広報移管写真の一層の活用を図るために、より多くの方へ資料の存在を知ってもらう必要があると考えています。当館HPにおいて、「くにたち あの日、あの頃」と題して写真の各紹介文を掲載していますが、この度は〝シリーズ〟という視点で写真をピックアップし、広報移管写真に詳しい執筆者による解説を加え、毎月新たな写真の紹介をしていく予定でいます。今シリーズの紹介を、どうぞお楽しみください。
なお、掲載している広報移管写真は営利を目的としない場合には、一般の方でもご利用が可能です。簡単な申請手続きでご利用いただくことが可能ですので、詳しくは当館までお気軽にお問い合わせください。
当館連絡先:℡042-576-0211
当館へのお問い合せ(メール):https://kuzaidan.or.jp/province/inquiry/
シリーズ 写真に探る高度経済成長期とくにたち
№8
「富士見台団地への入居風景」
撮影時期:1965(昭和40)年頃
ファイル№:033_336_15
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「一九五五年に始まる高度成長は、農耕社会から重工業社会へと産業構造を転換させていく過程であり、その後の四半世紀のあいだに起こる〈日本人の人口の一.六倍〉というドラスチックな人口移動の開始を告げるものであった。そして戦後の大衆は“もはや戦後ではない”とか、“所得倍増”といった時代のメロディーに誘われるようにして、不可避的に都市へ都市へと向かったのである。」小田光雄『〈郊外〉の誕生と死』青弓社 1997.9 p.28
このような時代にあって、都市で働く人々のために,質の高い住居を大量に建設する必要から、1955(昭和30)年に日本住宅公団が設立されます。限られた土地に多くの住宅を建設する必要から、4~5階建ての鉄筋コンクリートの中層集合住宅、いわゆる団地が大量生産方式によって各地で誕生しました。
この住居形態は、ダイニングキッチンにテーブルを置き椅子に座って食事をして、就寝は別の部屋でという、日本におけるこれまでの住居の在り方を大きく変化させるものでした。
55-4N-2DK型住宅(右図)
住宅の大量建設の実現のため、日本住宅公団設立まもない1955(昭和30)年11月に整備された「標準設計」の一つ。「共同住宅標準設計図集」において、「公団が建設する各種住宅タイプの中でその規模の標準となる型式」とされている。
典拠:独立行政法人都市再生機構技術・コスト管理部『’ING REPORT 住』2022年10月
公団住宅は、木賃アパートなどに暮らす若年層を中心に羨望の的となり、「団地族」という言葉を生み出します。その入居の抽選倍率は,宝くじ並みとも言われるほど高いものとなりました。
国立富士見団地は、1965(昭和40)年11月から入居が始まります。人口の増加で、国立市となる期待の大きさが、当時の町報からも読み取ることができます。
今回の写真は、第一団地の入居風景。この時代の引っ越しは、トラックを所有する運送業者に依頼する形が一般化していました。現在のような引越し資材がなかったため、荷物のキズ・破損も少なくなかったようです。引っ越しの専門業者が出てくるのは、1970年代になってからです。
国立歴史民俗博物館の赤羽台団地や、松戸市立博物館の常盤平団地など、団地の間取りを再現する博物館もあり、昭和の暮らしを身近に感じることができます。(T.A生)
№7
「甲州街道の横断歩道」
撮影時期:1963(昭和38)年
ファイル№:025_244_26
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以前、高度経済成長期の「交通戦争」についてふれましたが、東京都は1959(昭和34)年11月19日に、通学時の児童の安全を確保するため、学童擁護員(通称「みどりのおばさん」)制度をスタートさせます。通学路の要所に緑色の制服を着た女性が、子どもたちと親しく話しながら、旗を振っている光景を見た方もおいでではないでしょうか。
交通量の多い道路を横切るための横断歩道は、1960(昭和35)年12月の「道路交通法」の施行によって法制化されました。関連する条文は以下の通りです。
第二条
四 横断歩道 道路標識又は道路標示(以下「道路標識等」という。)により歩行者の横断の用に供するための場所であることが示されている道路の部分をいう。
第十二条
1 歩行者は、道路を横断しようとするときの、横断歩道がある場所の附近においては、その横断歩道によつて道路を横断しなければならない。
第十四条
4 児童又は幼児が小学校又は幼稚園に通うため道路を通行している場合において、誘導、合図その他適当な措置をとることが必要と認められる場所については、警察官等その他その場所に居合わせた者は、これらの措置をとることにより、児童又は幼児が安全に道路を通行することができるようにつとめなければならない。
初期の横断歩道のデザインは、「道路標識、区画線及び道路標示に関する命令」で、この写真のように①チェッカー柄と定められていました。当時の「国立町報」(142,166,171号)でも、このチェッカー柄の横断歩道のイラストを見ることができます。その後、1965(昭和40)年に②のようになり、さらに1992(平成4)年に右端のような③の国際的なゼブラ模様が採用され今日に至っています。
さて、この写真で注目していただきたいのは、都営バスの行き先表示。この302系統は、1949(昭和24)年12月に、八王子駅北口と新宿駅西口を結ぶ長距離路線として運行を開始しました。1958(昭和33)年に東京都交通局が発行した「都バス案内図」では、国立町内の停留所は「青柳」「プール入口」「矢川町」「国立役場」「谷保天神」の5箇所が見られます。
高度経済成長期のバスには車掌(殆どが女性)が乗務し、過酷な労働環境が強いられていました。『バス車掌の時代』(正木鞆彦著 現代書館 1992年)には、その実態が生々しく描かれていますが、片道40㎞、100分近くなるこの写真のような長距離路線の乗務は、たいへん厳しいものであったと思われます。失われた職業に想いを馳せる1枚の写真です。(T.A生)
№6
「中央線ガード」
撮影時期:1961(昭和36)年
ファイル№:017_165_25
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国立公文書館に所蔵されている『甲武鉄道会社鉄道線路中新宿立川間ノ運輸ヲ開始ス』(公文類聚・第十三編・明治二十二年・第四十九巻・運輸九・橋道鉄道附四)を見ると、中央線の前身甲武鉄道は、1889(明治22)年4月に蒸気機関車による運転で、新宿-立川間で営業を開始しています。
国分寺駅から立川へ向けては、国分寺崖線の高低差があるため、切り通しと築堤によって勾配の緩和が図られました。後にできる国立駅のホームが、駅舎より高い位置にあるのはそのためです。
写真は、中央線が高架化されるまで現役だった築堤下のガードです。1927(昭和2)年に拡幅されたものの、高度経済成長期以降の交通量の増加で、「国立駅周辺まちづくり基本計画策定にむけての資料」(2004[平成16]年3月)では、「中央線で分断された国立駅周辺地域の唯一の南北道路となっており…市民の協力による交通量調査では平日7時から20時の13時間の自動車通過量は約 9,000台である。しかしながら国立駅東ガードの道路幅員は約 5.4mと狭く、歩道もなく、ボトルネック状態」となっていました。
国立市東一丁目から北一丁目へ、ガードを挟んで伸びる道路は、都市計画道路3・4・10号国立榎戸線といい、1961(昭和36)年10月5日に決定されたものです。「多摩地域の都市計画道路は、1930(昭和5)年に八王子都市計画区域内の計画が決定した後、都市計画区域ごとに計画決定されてきたため、多摩地域全体として統一のとれたものではありませんでした。このため、1961(昭和36)年及び1962(昭和37)年に多摩地域全体を見据えた都市計画道路の見直し」(東京都都市整備局HPなどの記事、西暦表記は筆者追加)の結果によるもので、国立では、1961(昭和36)年に13路線が立川都市計画として決定され、その後、路線の追加を経て、1967(昭和42)年の市制施行に伴い国立都市計画となりました。
中央線のガードそのものをめぐっては、国分寺市の資料に参考となるものがあります。道路が、人の往来に重きを置いていた時代、様々なドラマがあったことが窺えます。(T.A生)
№5
「富士見通りのリヤカーによる厨芥収集風景」
撮影時期:1958(昭和33)年頃
ファイル№:001_019_11
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盛夏の旭通りを、鈴を鳴らしながら行くのは、台所のごみ「厨芥」収集のリヤカーです。『東京都清掃事業百年史』(東京都清掃局 2000年2月)にも類似の写真があります。“チリンチリン”と振鈴の音が聞こえると、各家庭からバケツなどに入れた「厨芥」を持ち出す光景は、どこの地域でも見られたものでした。国立町もその例外ではなく、1958(昭和33)年の『町勢要覧』によれば、人口2万2千人、世帯数5,700に対して、リヤカー4台、作業員3人で処理にあたっていたことが窺えます。自動車による収集が開始されるのは、1962(昭和37)年になってからでした。
1956(昭和31)年 | リヤカーでのごみ収集開始(畜産還元) |
1960(昭和35)年 | 「清掃条例」制定、清化園衛生組合内に焼却炉完成 |
1962(昭和37)年 | 自動車でのごみ収集開始 |
1965(昭和40)年 | 不燃ごみ収集開始 |
1970(昭和45)年 | 「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」制定 ごみ箱収集からステーション方式に変更 |
1974(昭和49)年 | 国立市清掃工場完成 |
1935(昭和10)年、当時の東京市がまとめた『厨芥雑芥の分別蒐集に就て』そのままに、1955(昭和30)年代頃までのごみ収集は、いわゆる生ごみ系の「厨芥」と、座敷や庭などを掃除して出される「雑芥」に分けて行われていました。しかし、高度経済成長期に大量生産・大量消費型の経済構造が進展すると、都市ごみは下のグラフのように急速に増加・多様化して、大量のごみがそのまま埋立処分されることとなり、処分地のある自治体では、大きな抗議運動に発展します。東京都知事が「ごみ戦争」宣言を出すに到るほど、高度経済成長期はさまざまな公害が可視化してくる時代でした。(T・A生)
資料:環境省『日本の廃棄物処理の歴史と現状』(2014[平成26]年2月 p.5)
国立町(市)のごみ収集量推移
単位(世帯数以外):トン
年 | 年間 総収集量 | 処理量 | 世帯数 | 備考 | ||
焼却 | 飼料 | 埋立 | ||||
1962(昭和37) | 4,900 | 3,590 | 1,310 | 0 | 8,975 | 自動車での収集開始 |
1963(昭和38) | 5,556 | 4,146 | 1,410 | 0 | 9,726 | |
1964(昭和39) | 6,777 | 5,057 | 1,720 | 0 | 10,479 | |
1965(昭和40) | 9,389 | 5,100 | 2,260 | 2,029 | 11,118 | |
1966(昭和41) | 8,825 | 5,100 | 2,140 | 1,585 | 13,735 | |
1967(昭和42) | 9,395 | 4,760 | 2,356 | 2,279 | 15,235 | 市制施行 |
1968(昭和43) | 10,276 | 4,590 | 2,486 | 3,200 | 15,864 | |
1969(昭和44) | 12,076 | 2,886 | 3,168 | 6,022 | 16,335 | |
1970(昭和45) | 14,579 | 4,865 | 4,297 | 5,417 | 20,881 | 不燃ごみ収集開始 |
№4
「清化園プール」
撮影時期:1962(昭和37)年
ファイル№:019_183_03
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1960(昭和35)年7月29日、清化園に隣接して、町営の25mプールが完成し、町立小、中学校の児童生徒を対象に利用が開始されました。翌年の夏には、一般の町民への公開も始まり、1962(昭和37)年には50mプールの完成に合わせて、立東地区からバスが運行されるようになります。(『広報くにたち』109号1962年8月1日p.5)1965(昭和40)年には幼児用の円形プールも完成し、町民の利用も増加します。
しかし、総合体育館に屋内プールが整備される1982(昭和57)年頃には減少傾向が進み、閉鎖前の夏には1万2千人ほどに落ち込んでいました。
【清化園プールの利用者数】
年 | 1961 (昭和36) | 1962 (昭和37) | 1967 (昭和42) | 1970 (昭和45) | 1983 (昭和58) | 1987 (昭和62) | 1999 (平成11) | 2000 (平成12) |
日数(日) | 46 | 77 | 77 | 51 | 35 | 22 | 43 | 41 |
入場者(人) | 10,470 | 87,426 | 121,379 | 98,507 | 38,697 | 18,168 | 13,033 | 12,651 |
社会全体を見ると、東京オリンピックを控えた1961(昭和36)年に「スポーツ振興法」(現在の「スポーツ基本法」)が施行されます。その第12条は
「国及び地方公共団体は、体育館、水泳プールその他の政令で定めるスポーツ施設(スポーツの設備を含む。以下同じ。)が政令で定める基準に達するよう、その整備に努めなければならない。」
と規定し、第20条で
「国は、地方公共団体に対し、予算の範囲内において、政令で定めるところにより、次の各号に掲げる経費について、その一部を補助する。この場合において、国の補助する割合は、それぞれ当該各号に掲げる割合によるものとする。
一 地方公共団体の設置する学校の水泳プールその他の政令で定めるスポーツ施設の整備に要する経費 三分の一
二 地方公共団体の設置する一般の利用に供するための体育館、水泳プールその他の政令で定めるスポーツ施設の整備に要する経費 三分の一」
と定め、地方自治体のプール設置に補助金が支出されるようになりました。この法律の施行を機に、公営プール、学校プールの設置が進む訳ですが、地方自治体の公営プールが、まだ少数であった当時、国立町のプールは、国の政策に先行したかたちで整備が進められたといえるでしょう。
【公営(自治体)プールの数の推移】
年 | 施設数合計 | 設置者 | ||||
都道府県 | 市(区) | 町 | 村 | 組合 | ||
1955(昭和30) | 159 | ― | ― | ― | ― | ― |
1960(昭和35) | 291 | 35 | 202 | 50 | 4 | ― |
1963(昭和38) | 426 | 32 | 255 | 127 | 12 | ― |
1968(昭和43) | 899 | 47 | 410 | 380 | 62 | ― |
1971(昭和46) | 1,317 | 101 | 581 | 552 | 82 | 1 |
1978(昭和53) | 2,137 | 81 | 983 | 908 | 160 | 5 |
清化園のプール開設からほぼ20年後の1979(昭和54)年、「清化園プールを訪ねて」というビデオが作られました。水遊びに来た子どもたちや、当時の担当課の職員へのインタビューも興味をそそられますが、写り込んでいる周囲の風景も貴重なものです。YouTubeで見ることができます1。また、清化園プールは、郷土文化館の学芸員による詳細な報告が、同館HPで公開されています2。(T・A生)
1 国立市チャンネル:
【お宝発掘動画】昭和54年度「清化園プールを訪ねて」① https://www.youtube.com/watch?v=WJc-8xsOBUM
【お宝発掘動画】昭和54年度「清化園プールを訪ねて」② https://www.youtube.com/watch?v=001pZrN8cHQ
2 写真紹介-15「清化園プール」 1962(昭和37年7月頃)
https://kuzaidan.or.jp/province/kuni-photo/photo-info/写真紹介-15「清化園プール」%e3%80%801962(昭和37)年7月頃/
№3
「出水の大学通り/国立高等学校前附近」
撮影時期:1961(昭和36)年
ファイル№:013_132_20
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東京都下水道局が2019(平成31)年3月に出した『東京都流域下水道50年のあゆみ』(以下『あゆみ』)には、国立町の項に次のような記事があります。
「(国立町は)河川らしい河川がないものの、雨が降ると近隣からの細流が、当時国立町の盆地の平坦低湿地帯へ流入し、出水期にはしばしば洪水となり、またさらに標高の低い隣接市への溢水、流出が市町村間の問題となっていた。このような中で、隣接5市町村により国立周辺排水路建設促進委員会を結成し、都の協力を得て昭和29年〔1954〕※から整備が進められ、昭和37年〔1962〕に約4kmに及ぶ国立周辺排水路が完成した。
同年には国立駅周辺地区の雨水排除を目的とした、国立市下水道計画を策定し、国立周辺排水路を軸とした都市下水路事業に着手した。
しかしながら排水施設は依然不足しており、雨が二日も降り続くと道路が冠水する地域が続出し、雑排水を含む雨水が街路に停滞したまま浸透・蒸発を待つ、極めて不衛生な状態となっていた。」(175頁)
この写真は、国立町報第6号(1952・昭和27年2月15日)で町長が述べている「雨降りの都度モーターボートを必要とすると云はれる国立高等学校前の道路」です。この問題解決のため、「水郷国立解消 排水吸水池工事決定」(国立町報第7号[1952・昭和27年3月15日]の第1面の見出し)がされて、東区に雨水を集めるための暫定吸水池が作られますが、『あゆみ』にある国立周辺排水路の整備が進むまで、写真のような光景は、おもに国立地区の町内随所で展開していました。(T・A生)
※引用文中の〔〕内は引用者による挿入です。
№2
「甲州街道の事故」
撮影時期:1962(昭和37)年
ファイル№:015_151_23
解説はコチラ
高度経済成長期は、自動車交通も急成長期を迎え、交通事故発生件数、交通事故死者数が、共に激増した時代でもありました。
発生件数(件) | 死亡事故件数(件) | 負傷者数(人) | 死者数(人) | |
---|---|---|---|---|
1955(昭和30)年 | 93,981 | … | 76,501 | 6,379 |
1960(昭和35)年 | 449,917 | … | 289,156 | 12,055 |
1965(昭和40)年 | 567,286 | 11,922 | 425,666 | 12,484 |
1970(昭和45)年 | 718,080 | 15,801 | 981,096 | 16,765 |
「交通戦争」とまでいわれたこの頃、くにたちでは、多摩地区の1市3町(立川市、砂川町、村山町、大和町)とともに、交通安全都市を宣言したことが、1962(昭和37)年3月の町報(第102号)で紹介されています。
しかし、宣言で交通事故は減らないと考えたのでしょうか、翌月の町報(第103号)でも、甲州街道で起きた事故の写真とともに、引き続き交通安全の訴えをのせています。
このトラック事故の写真は、町報の記事とは少し写す角度を変えて撮っていますが、事故現場もさりながら、当時の甲州街道のようすがよくわかります。
高度経済成長期は、物流が鉄道からトラック輸送に移行した時期でした※。
甲州街道は、昭和初期に幅員が15mとなり、その後四車線に拡幅されましたが、そのぶん歩道が縮小しました。1970(昭和45)年改正の道路構造令で「特定経路を構成する道路に設ける歩道等の有効幅員は、道路構造令に準じ、歩道においては 3.5m(歩行者交通量の多い道路)又は2m(その他の道路)以上、自転車歩行者道においては4m(歩行者交通量の多い道路)又は3m(その他の道路)以上確保することとする。」とされた以後も改善されていません。このことは最近の「国立市地域交通計画」でも言及されています。「交通戦争」は、歩行者には過去のものではないのかもしれません。(T.A生)
※河村徳士「高度成長期日本の拡大するトラック輸送市場」城西大学大学院研究年報(32)、2019.3)
№1
「文教地区看板と国立駅南口」
1961(昭和36)年頃
ファイル№:015-147-15
解説はコチラ
高度経済成長期の社会と、その頃のくにたちのようすを、写真と資料を見ながら振り返ります。
日本は、1955(昭和30)年から1973(昭和48)年のほぼ20年間、実質経済成長率が年平均10パーセント前後の高い水準で成長を続けていました。神武景気、岩戸景気、東京オリンピック後のいざなぎ景気と好景気が続き、国民総生産(GNP)は資本主義国第2位になります。
くにたちでは、戦後の復興期から人口は増加の一途でしたが、この時期の伸び率は急激でした。下表の国勢調査の数字からも読み取ることができます。特に1965(昭和40)年の富士見台団地の完成後は、さらに拍車がかかり、町役場(市役所)は、学校建設をはじめとした都市インフラの整備に追われるようになっていきます。
人口(人) | 増加数(人) | 増加率(%) | |
---|---|---|---|
1950(昭和25)年 | 14,679 | ― | ― |
1955(昭和30)年 | 23,242 | 8,563 | 44.7 |
1960(昭和35)年 | 32,609 | 9,367 | 40.3 |
1965(昭和40)年 | 43,477 | 10,868 | 33.3 |
1970(昭和45)年 | 59,709 | 16,232 | 37.3 |
この時代のできごとなどは、次回以降に見ていくこととして、まずは国立駅に降りたってみましょう。
写真は、1961(昭和36)年ころの円形公園からみた国立駅です。『昭和36年度版町勢要覧』に同じ写真がのっています。駅舎をよく見ると、牛の目になぞらえるドーマー窓があり、駅名標も古いタイプです。また、下りホームの立川方には屋根がありません。「国立文教地区」の看板は、1952(昭和27)年当初のものから変わっています。円形公園も、ふつうに立ち入りができたようで、ベンチが置かれています。
このように、現在では失われたものを写真(記録)に見つけ出しながら、社会とまちの変化を考えようというのがこの企画のねらいです。そのためには、多くの情報(読者のみなさまの記憶)が必要です。これからご紹介する写真にまつわる情報を、ぜひ郷土文化館にお寄せいただき、“歴史の中継ランナー”のおひとりになっていただきたいと思います。(T・A生)