2021年度は、当館で3回連続の古文書講座を開催致しました。
当講座では「忘れられた安楽寺の記憶」と題して、国立市が所蔵する本田家旧蔵資料の中から、谷保天満宮の別当寺であった安楽寺に関係する古文書を教材として取り上げました。
この度、本講座をご担当した古畑講師に協力を願い、使用教材の中から『天神宮本社建立勧進帳略縁并序』をピックアップし、参加者の方と一緒に読み解いた翻刻文・現代語訳と共に資料画像をご覧いただけるように致しました。腕に自信のある方は、資料の読解にチャレンジしてみてください。古文書が語る歴史を肌で感じられるかもしれません。
本田家から国立市にご寄贈いただいた本田家旧蔵資料には、古文書や古典籍をはじめとした様々な資料が数多く含まれています。近世から近代にかけての谷保村や国立町・国立市の姿、さらには多摩地域の歴史を語るうえで重要な資料が、歴代の本田家の人々によって遺されてきたのです。この度の古文書の紹介が、本田家旧蔵資料の貴重さを知っていただく機会ともなりましたら嬉しい限りです。
安楽寺について
安楽寺は、谷保天満宮の別当寺で、正式には「梅香山松寿西院安楽寺」と称しました。江戸時代の谷保天満宮には専任の神職が存在しなかったことから、安楽寺の住職が天満宮を管理していたと考えられています。
その創建については、後白河天皇の孫・法円によって947(天暦元)年に開かれたとするもの(『安楽寺記』)のほか、1014(長和3)年を創建とするもの(『深大寺末門分限帳』)もあり、創建時期ははっきりしていません。
その後の沿革等についてもよく分かっていませんが、同寺の過去帳(調布市上石原の西光寺所蔵)には、江戸時代初期から末期までの歴代住職の名前と没年などが記されており、同寺の継承などを知る上で貴重な資料となっています。
明治維新後、安楽寺は新政府の神仏分離令によって廃寺となります。最後の住職となった権少僧都法印秀影が還俗して津戸監物と名乗り、1868(明治元)年9月29日には天満宮の初代神職となっています。そのお堂も、1873(明治6)年頃には取り壊されてなくなったといわれています。
安楽寺の所在について、『江戸名所図会』(1834・天保5年)では、天満宮の境内から西北1町半(約160m)のところとされています1。その跡を探索する目的で1969(昭和44)年に学術調査が実施されましたが、関連する遺跡は発見されませんでした。その後も、住宅建設や宅地造成に伴う調査(1994・平成6年および2007・平成19年)が行われていますが、耕作によるかく乱が著しいことなどもあって、現在に至るまで安楽寺に関連する遺構は確認されていません。今では安楽寺がいずこに所在したのかすら定かではないのです。
1 「梅香山安楽寺 松寿西院と号す 天神社より一町半あまり西北の方 街道より右側にあり 天台宗にして東叡山に属せり 当寺は天満宮の別当寺にして天暦年間法円大僧正開創せりと云(以下略)」